2006/06/30

こどものとも50周年に思うこと  作田真知子

 50周年ということは、毎月一冊ずつ出版される「こどものとも」が600冊になったということです。それに増刊号3冊と途中からできた「こどものとも年中向き」200冊を加えると、あの薄さのあの大きさの絵本が803冊も出版されてきたということですね。
 その中から子どもたちが3代にわたって楽しんでいるロングセラーがたくさん生まれました。時代も違えば、生活環境も違うところで暮らす人々が、世代を超えて、「その話こうなんだよね。あそこがおもしろかったよね」と、心の中に共通の世界を持てるのは、思えばすごいことだなあ、と思います。変化の激しかった日本の文化の中でもめずらしい現象ともいえるのではないでしょうか。絵本というメディアの持つ力をあらためて目の当たりにした感があります。
 また絵本を作る側から見ると、この50年はじつにたくさんの人たちがその時代時代で、子どもに向けて自分を表現してきた歴史だとも言えます。子どもに向けてお話を語りたい人、子どもに向けてことばを発したい人、子どもに向けて絵を見せたい人。50年の間そういう人は絶えることなく、今もたくさん存在します。どうしてなのでしょう。作り手はみな大人なのにどうして大人に向けてではなく子どもに向けて自分を表現したいのでしょうか。「こどものとも」は子どもに向けた仕事の動機として一番多い、「子どもたちの教育のために」という姿勢は当初からとりませんでした。「子どもたちの楽しみのために」と考えてきました。ということは「こどものとも」で自分を表現したい、と思っている人は「子どもといっしょに楽しみたい」やむにやまれない欲求を内にかかえていると言えるかもしれません。

 子どもたちは、ほんものとにせものをすぐに見抜きます。同じおもしろいものでも、ほんものはなんどでも味わいたいし、にせものはすぐに飽きてしまいます。「子どもといっしょに楽しみたい」から、ほんものの楽しさを味わえる表現をめざす人がたくさんいたから、こんなにたくさんの「こどものとも」は誕生をくりかえすことができたのでした。
 私たち「こどものとも編集部」はそういう人たちとこれまでもこれからも仕事ができて、ほんとうに幸せだと思います! 何が子どもたちにとって、おいしくて栄養になる食べ物のように、楽しくていつまでも心に残る絵本なのか、模範解答などありません。なぜかというと絵本は一冊ずつ、うみだす親も違えば、親がたいせつにしていること、面白いと感じていることも違う。親が美しいと感じていること、愉快だと感じる絵も違う。まるでひとりの人間みたいなものです。だから模範解答などないのがあたりまえ。そのできかけの絵本の声に、耳をすまして、一冊ずつその絵本が求めているおもしろさ(それはかならずしもその親が求めているものがすべてではありません)をめざして努力するのが私たち編集部の仕事です。思いっきり自由に、思いっきり楽しい絵本をめざして。
 だから私たち編集部のひとりひとりは、いつもできかけの絵本の声が聞こえるように、自分自身のこころの耳を澄ませているようにするという、簡単なようでいてむずかしい仕事を背負っているとも言えます。ほんとうのことばに出会い、ほんとうの絵に出会い、ほんとうの楽しさに出会うために。そして毎月一冊のおもしろい「こどものとも」を子どもたちの心に届けるために。

作田真知子(さくた まちこ)
1971年、福音館書店入社。月刊誌「子どもの館」編集部などを経て、1984年より「こどものとも」編集部勤務、1994年より「こどものとも」編集長。

6月 30, 2006 2005年, エッセイ | | コメント (1) | トラックバック (0)

2006/06/23

新しい絵本をつくりつづけて…… 編集部座談会(3)

:気持ち的には、子どもの時にすごくおもしろかった本のようなものをつくりたいなとは思うんですけれども。
:会議の時、原稿を読むのを耳から聞く時も、子どもの時に自分がどんな感じで読んでたか、聞いてたかという子どものころの自分になりきって、けっして体とかはもどれないんですけど、心境としてもどってみて、子どもたちはどう思うのか想像しながら聞いています。
:子どものものをつくるっていうのは、いまの大人の感覚だけじゃなくて、自分の小さい時の感覚みたいなものが常に試されるようなところがありますよね。
:作者にいろんなタイプがありますよね。努力して小さいころのことを思い出すとか、または常に小さい人と遊びながらその感覚を失わないようにしてる人とか、その人のタイプによってちがう。たとえば子どもと遊びもしなければ、子どものことを大して好きでもないけれど、書くものは子どもにいちばん近い人もいる。そういう人の作品には、子どもにもどるんじゃなくて、自分の中に確実に子どもがいるんだっていう感じが、強くする。なんの努力もしていなくても描くものがそのままで、子どもに通じる、子どもと生理的に一体感がある、という絵描きさんもいる。絵描きさんとか作家の方にもいろいろなタイプがあるように、編集者にもタイプがあると思います。だから小さいころ絵本体験をそんなにもたなくても、ものすごく勘のいい人っていますね。
:必ずしも、絵本をたくさん読んでいるから、良質な、子どもが楽しめる本がつくっていけるかっていうと、そうじゃないんだなって思います。
:私が夢中で読んでいた頃の70年代の書き手は、戦争中や戦後すぐに子ども時代をすごした人が多くて、自分自身が子どもの頃にはそういう絵本体験はなかったという人たちですよね。だから、それがないといい絵本は絶対できないというものではないですよね。

:何がおもしろい子どもの絵本の条件かということは、「こどものとも」が始まってから試行錯誤で探ってきているわけですよね。いま、いい絵本とは何かということで一般的に私たちがいっているようなことは、手探りで探り当てたものであると同時に、西欧の昔話の型とか物語の型というものが、結局は子どもたちにながく喜ばれるんだという、一種の理念のようなものとして輸入されてきたんじゃないかなと思うんですね。私たちが子どもの本をつくるとき、特に福音館の場合はかなりそのあたりを意識して、始めがあって終わりがある物語の型というのが子どもたちは好きなんだって信じてつくっているところがあります。
 「こどものとも」の歴史が、それを物語っているともいえますが、その結果、日本の昔話の中でも、かなりその要素の強いものしか絵本にはならないということがあります。あいまいな結末なものはやはり絵本になりにくい。でも、まだまだたった50年の歴史の中で、子どもの本というのはこういうのがおもしろいんだっていうことを定義づけながらも、一冊一冊はちがうわけだから、おもしろい絵本とは何かということをひとつひとつ探りつつ、絵本をつくっているというのが実際の感じなんじゃないかと思います。
 でも一方で、文章としての物語性の起承転結のないもの、たとえば『ごろごろにゃーん』とか『やっぱりおおかみ』とか、ああいう種類のものも子どもたちは大好きだっていうこともわかってきている。そういうものも子どもたちの好きな本として入ってきたのは、なんとか西欧の物語文学に対する信奉から自由になろうと努力した結果かなとも思えるし、それはプラスの面でもあると思います。
 いつも試行錯誤の連続ですよね、一冊一冊。本を計る定規があって本ができるのではなく、お話と絵という生き物でできるので、いつも“このようになったら最高”というイメージをもちながら、作者と画家と編集者がぎりぎりまで努力して、世に送りだしている。だから出版される時は、子どもたちに喜んでほしいという思いと、ほんとうに子どもたちの心に届くのだろうかという不安とおそれが、いりまじっていますね。

:絵本のお話、テキストというものがつくりにくい時代になってきているのかなとも思います。あと、生活感覚、たとえば『はじめてのおつかい』みたいに、子どもがひとりでおつかいにいって、“ぎゅうにゅうください”というシーンは、すでに現実にはほとんどない。子どもがひとりでいる状況が極端に少なくなっている。この子どもの気持に共感はできるが、状況はちがう。この絵本がいまも存在するっていうことは、すごくうれしいことなんだけど、いままた同じようなものをひとつひとつ生み出す力があるかっていうと……。
:なにか生活実感みたいなもののなかで表現したいものがあって、物語が生まれてくると思うんですけど、その表現したいものの強さっていうのが、書き手の中に弱まっているのかな。頭で物語をつくっちゃって形にはなっているけど、あんまりおもしろくないっていうのが結構多いようで、なぜなんだろうと思ったりします。最近の「こどものとも」はお話が弱いとか、おもしろくないとかいわれるんですけれど、そのへんはかなり永遠の課題みたいなところがあります。でも私たちもいい出会いを求めて、こらからもどんどん出かけ、どんどんいいものを見たり読んだりしたいと思います。
:実感をともなった一言というか、言葉に出会いたいんですけど、希薄なんですよね。だから文章と絵が二人の作家によるものがたいへん少なくなってきています。絵描きさんの作・絵というのが、時代を追うごとに圧倒的に多くなって、絵描きさんの絵のイメージの展開で、いわゆる起承転結をつけていくというほうは、非常にうまくなってると思うんですけれど、やっぱり言葉に対しては食い足りないところが、その場合は出てきます。絵本専門に書くテキスト・ライターはだれがいるかって、数えられるくらいじゃないですか、いまは。
:岸田(衿子)さんとか、中川(李枝子)さんとか子どもの感覚で子どもがほんとうに楽しめるおもしろいテキストを書いてくださっている。中川さんの『いやいやえん』なんかを読むと、ほんとうに子どもってこんな感じだなっていう、あんまりいい子すぎないし、悪い子すぎないし、子どもをすごく描けてるなって思うんですけど、そういう子どもの姿、ほんとうの姿が書ける人に会いたいと思っても、なかなか会えないです。形としてはぶかっこうかもしれないけれど、ここはすごくおもしろい、ここはすごく印象に残る、いいなあっていう本がつくってみたいと思います。
:絵本でもいろんなタイプのジャンルがありますからね。子どもをよく見て、よく描けるタイプの作者もいるし、そうでなくてもおもしろいものを書けちゃう人もいるし、テキストがいろいろ多岐にわたるのが絵本のおもしろさだと思います。そういう意味では「こどものとも」はいままでもそうですし、これからも、かなり広範囲にわたっての作者を、単に保育者的な目だけでなく、広い世界のおもしろさを引き出してくれる、そういう人たちを、日本だけではなく、世界的な視野をもって見つけていかなければ、おもしろいお話は、いまの日本、ましてや保育の世界だけにとどまっていては、なかなか生まれない、という感じがしますね。

6月 23, 2006 2004年, エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/06/16

子どもと読んだ「こどものとも」——編集部座談会(2)

:私の場合は、今はDさんぐらいになる子どもに読んであげてた。子どもが2人いたので10年間くらいにわたって読んであげてました。子どもと何度も読んだ本といえば、『とうだいのひまわり』とか、古いものは年中向きでリバイバルしていたのか、私が福音館にいたから家にあったのか、けっこう昔のものも読みました。『てぶくろくろすけ』も何度も読んだし、『12のつきのおくりもの』も『のんびりおじいさんとねこ』も『ひっこしこし』も好きだった。『しごとをとりかえたおやじさん』もすごい好きでしたね。『ぐりとぐら』は、うちの2人の子はそんなにはまらなかったですね。
:Mちゃん(女)とHくん(男)とちがいますか、好みが?
:微妙にちがってね、Hが『よるのびょういん』に夢中だった時は、Mはもう大きくなっていたんじゃないかな。『ちいさなろば』とか両方ともすごい好きだった。『やこうれっしゃ』も好きだったし、保育園の生活だったから『くらやみえんのたんけん』もめちゃくちゃ好きでしたね。『マフィンおばさんのぱんや』はMがものすごく好きだった。『おなかのすくさんぽ』はHが好きだった。こわいのに何度も何度も読んだ。『どうぶつしんぶん』もずいぶん読みましたね。
:『どうぶつしんぶん』なんかどうやって読むんですか?
:『どうぶつしんぶん』は好きなところだけ記事を読んであげて、いつもおんなじとこで笑ったりしてました。
:私も『どうぶつしんぶん』のヘビの詩を近所の子とみんなで覚えて、いいあったりしてた。
:やっぱり、会社で一人で読んだものよりも、子どもといっしょに読んだもののほうがよく覚えているし、印象にも深く残っていますね。
:最近私もだんだん「こどものとも」を子どもといっしょに読めるようになってきました。最近のヒットは『ムッシュ・ムニエルをごしょうかいします』で、子どもが全部覚えていて、中に出てくる呪文とかもいえるんですよ。「ウマはキュウリのサラダをたべな~い」とか「ムッシュ・ムニエルはヤギですが、ふつうのヤギとはちがいます」とか。私は読んでいて、この本は大人っぽい感覚かなと思っていたら、意外に子どもがはまっています。今、福音館で売られてないのがさびしい気がします。思い出に残っているのが、今売られていないというのがけっこうあったりしますね。ハードカバーになっていなくても名作はいっぱいあるというか…。
:月刊誌をとっていたから、そういうのに出会えたということでしょうね。
:ちょっと営業っぽくなってますけど。
:子どもにとっては、面白いかどうかだけですよね。販売面のこととか、いろいろな大人の事情で子どもの手に届きにくくなっているものもありますよね。

:子どもがいったことで、ヒントになって作った本があります。『おいしいものつくろう』は、Hがお料理を手伝いながら、「ここでたまごをわりまして~」とか歌を歌ってたから、お料理を作る歌を作りませんかって岸田衿子さんにお願いしてできたんです。
 自分が絵本を読んであげて、今は大人になった子どもたちにとって、絵本はなんなのかというのは、親からするとわかんないですね。A君みたいに「こどものとも」編集部に入ってということがあれば、突然思い出すこともあるのかもしれないけど、まだ20代の終わりとか30代の初めで、全然別の仕事をしてるから。これから自分の子どもに読んでやって思い出すことはあるかもしれない。特に男の子なんか、あんなに絵本が好きだったのに、それが彼の中で今どんな位置をしめているのかなって思うことも時々ありますね。
:うちの兄とかそうですね。ずっと絵本からはなれてて、今自分の子どもに読んでいて初めて、ああ、そうだそうだ、この話こうだったよねって話しながら思い出して、2度目に楽しんでいる。それでやっぱり自分が好きだったものが、子どもも好きだったりすると、うれしいらしい。
:このあいだも「こどものとも絵本の世界展」の会場の売り場で、一生懸命、「お父さんはこれが好きだったんだよ」って娘にいってる人がいて—『ぐるんぱのようちえん』なんですけど—娘は一生懸命ちがう本を見ようとしてて、「お父さんはこれ」っていっても全然聞いてくれないから、奥さんのほうに「おれの話を全然聞いてくれない」っていいにいってました。
:でもそれって子どもはすごくわかるみたいで、「これはお父さんが好きな本。これはお母さんが好きな本」ていって、お父さんの好きなこの本、読んでとかいうんですよね。
:お父さんの時はこの本読んでもらうみたいのがあるよね。
:うちの父親には2つくらいしか読んでもらった記憶がなくて−ほんとはものすごい読んでくれてたらしいんですけど−そのうちのひとつは『ごろごろにゃーん』、もう1冊は加古さんの『どろぼうがっこう』(偕成社)。
:お父さんが読んでくれたほうがおもしろそうっていうのがあるかもしれないよね、『どろぼうがっこう』とかは。
:「ぬきあし さしあし しのびあし」とかいうのも父親がのって読んでくれた。「ごろごろにゃーん」もけっこう抑揚つけて「ごろごろにゃーん ごろごろにゃーんと ひこうきはとんでいきます」とかいって。
:その節で入ってる? やっぱり?
:そうなんです。ほかの人の節っていうか、読み方だとなんかちがうなあっていう感じ。
:子どもの好みというのは、自分の好みとはちがう部分があるかもしれない。
:男の子っていうのは特に不思議ですよね。ある時ぴたっと全然ちがうほうにいっちゃうから。
:そうなの、ある時ぴたっとそういうこといわなくなるから。
:なんか女の子っぽいとか、子どもっぽいみたいな感じで。
:ちょっとはずかしいみたいな感じ。
:それをこえたらまた変わるんだろうけど。私の兄もいっしょに絵本読んでいたんだけど、そんなには私ほどには覚えていなくて、それでも『スーホの白い馬』がすごいよかったとか、そういう時だけは和やかな感じで話ができる。兄弟でもそんな会話はないけど、なんか共通のベースのところにもどれるということがあるかもしれないですね。兄は特に絵本好きというわけではないですね。今、小学校の先生ですけど、もっと子どもに本を読んであげてほしいですけど。
:絵本だけじゃなくて、ほかにもいっぱい楽しい遊びがありますからね。選択肢のひとつっていう感じでね。
:絵本はなにが普通のほかの遊びとちがうんだろう。
:私は仕事してたから、寝る前に読んでやるっていうのがすごい楽しみだった。一番てっとりばやくて簡単じゃない、それでよろこぶから。絵本を読む時間というのが自分でもいい時間でしたね。
(次回に続く)

6月 16, 2006 2003年, エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/06/09

子どもの頃の「こどものとも」−−編集部座談会(1)

 現在、「こどものとも」編集部には、「こどものとも」を読んで育ってきた人たち、「こどものとも」を読んでやって子どもを育てた人たち、育てている人たち、そんな読者でもあり、作り手でもある人たちがいて、絵本の編集に携わっています。「こどものとも」編集部の人たちの話を聞いてみました。

:ぼくは子どもの時の絵本体験ってほとんどないと思っていたんですけど、会社に入って、「こどものとも」のセクションにきて、バックナンバーをぱらぱら見ていて、一番びっくりしたのは、『ゆうちゃんのみきさーしゃ』を見た時です。最初にかんからが転がって物語に入っていくんですけど、「これ見た! 知ってる!」って、20数年ぶりによみがえった感覚があって、すごくなつかしくて一気に子どもの頃にもどっちゃった感じがしたんです。
 ずうっと20何年も思い出したことなかったけど、知ってるなあっていう感じは、ほかにも『きいたぞきいたぞ』を見た時に、このセリフは知ってるぞとか、あと『うおがしのあさ』で魚がどどーんとでっかく出てくる絵も、「これは見た」っていう感じがしました。実は子どもの時、絵本を全然見てないと思っていたけど、ちょっとずつ幼稚園とかで見ていたんだなあと、その頃の感覚がよみがえったのが、編集部にきて衝撃でした。

B:私は親が別に絵本好きってわけじゃないんですけど、幼稚園にも「こどものとも」がいっぱいあったし、家でもたぶんとっていたんでしょう。小さい時はとっていたっていう感覚はなくって、毎月もらってくるっていうような感じだったのですけど、それをとにかく楽しみに読んでもらっていたんですね。わたしは内容とかも覚えているんですけれども、大きくなって母にいうと「そんなのあったけ」って、意外に読んでくれた人は忘れているのがショックだったんです。
 バックナンバーを見ていると、絵を覚えているものと忘れているものとあって、土方久功さんの『ぶたぶたくんのおかいもの』が大好きで、小さいときはものすごくおもしろいなって思っていたんですけど、大きくなってみると、たぶん一般的には全然かわいくなくて変な絵だなと大人の人は思うと思ったんです。でも、子どもにとってはものすごい「その人がいる」っていう、あの八百屋のお姉さんとかおかし屋のおばあちゃんとか、ほんとに出会ったような感覚で楽しんでましたね。
 丸木俊さんの絵もよく覚えてるんです。目玉がなかったりしてちょっと怖い雰囲気なんですね。話も昔話なんかそうですけど、その雰囲気にすっぽり入り込んで、『こまどりのクリスマス』なんか、ちょっと怖さもあったりしながら、別の国のふしぎな話だな、なんて思いながら聞いていました。
 傑作集としてハードカバーになっていないものもすごくよく覚えています。『ゆびっこ』もすごく面白くて、子どもの時は、指がばらばらになるのも全然ふしぎに思わなくて、読んでいて特に自分が小指になったような気分になってました。小指になるとすごい大きな犬に会うんですけど、それが怖かったなあとか、けっこう、物語に入り込んで読んでました。会社に入ってから、その本を開いた時、わあっと、その時の母親の声とか、読んでもらってた、その時の空気とかが、タイムカプセルみたいによみがえってくるということがありましたね。  
なんか鳥の夫婦がいろいろ訪ねていって「かーっかーっ」ていうがやつ面白かったんですけどって編集部の人に聞いたら、「それは『われたたまご』だよ」っていわれて、「かーっかーっていうんですよ」って一生懸命いったら、みんなわかってくれました。ああいう不思議な、お話にすっぽり入っていって残る言葉、子どもとして読んだときに引っかかるような言葉っていうのが、あるんだなあと思いました。

C:『ぐりとぐら』のような、今でも読み継がれていて 、誰でもが好きみたいな絵本も読んでいた記憶はありますけど、一般には知られていないような作品が好きだったみたい。今は傑作集として手に入らない『はるかぜとぷう』とか『ゆうこのあさごはん』、あと『かばくん』が好きで。あと地味な本なんですが『イカロスのぼうけん』が一番記憶に残っています。 悲しい気分になるんだけど、何度も何度も読んだ記憶があります。年の離れた兄がいるので、自分の年代よりも以前のものから家にはあったんだと思います。今考えると、地味な本が好きだったんですねー。『さかさま』とか『ふしぎなえ』とか、言葉のない本をじーっと見てるのも好きだった。「はい、みんなで読みましょう」って絵本を読んだ記憶はあまりなくて、家で親といっしょに読んでいたような気がします。

D:今でも普通に生活してる中で、「これ前にみたことある!」って思うことがよくあるんです、景色とか。でも、実は絵本だったということがけっこうあります。絵本の世界を自分で見た気になっているんですよね。すごい錯覚なんですけど。ああいうとこ行ったなあ、とか思っていて本当は行ってない。

B:よく『スーホの白い馬』を読んでいて、モンゴルにいくと、ああこれ知ってるって思う人はいるらしいですね。色とか感じとか。印象に残る絵っていうのはどういうのかなって、すごく興味がありますね。その子によってたぶんちがうと思うんですけど。

D:「こどものとも」は、薄いからずっととっておいてもらえて、しまいこまれることもなく、いつも身近にありました。さんざん読んでもらいもしましたが、一人遊びとして自分でぱらぱら見たりすることも多かったです。私の好きな読み方があったんですけど、大人がジャケットを見てレコードを選ぶような感じで、自分で表紙を見て、気分に合わせて選ぶんです。外に遊びに行く前なんかに、今日はこれとこれとこれとこれって、絵本箱から出してきて、誰によんでもらうわけでもなく、一人で一気に見るんです。そうするとすごく落ち着くんですよ。小学校の中学年になってもやっていたと思います。大人だったら音楽をかけて気分を落ち着かせたりするのと同じようなことを、絵本でやっていたんだと思います。「絵本を読みましょう」とかじゃないんです。あれは、自分にとって大事な時間でしたね。精神安定剤みたいな。

:なんかそういうエピソード聞いたことがある。お母さんが留守で留守番してるときに、ひとりで寝るのに、いつも読んでる本を枕元において寝たら寝られた。本を読むんじゃなくて、本自体をそこにおいとくだけで安心する。

:よく知ってる本だと、それを見ただけでその世界に入っていけるというのがあるから。表紙を見るだけでも、けっこうじんわりくるんですよね。
(次回に続く)

6月 9, 2006 2002年, エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/06/02

お話は口から口へ、刺繍は手から手へ−『サルとトラ』について  安井清子

 この物語を書いたヤン・サンは元難民の若者です。布に下絵を描いたドゥア・リーは彼の友だち、そして刺繍をしたロンはサンの弟、イェンは妹です。私がサンに出会ったのは、タイ東北部にあったラオス難民キャンプでした。もう10年以上前のことです。私は、日本の援助団体のスタッフとしてモンの子どもたちのために図書館活動をしていたのでした。サンは「子ども図書館」に働きに来ていました。当時、サンは15歳くらいだったでしょう。その年頃の男の子たちが大勢、図書館の仕事を手伝いにきていて、私たちは、日本から持っていった絵本を小さい子どもたちに読んでやったり、絵を描かせたり、人形劇をしたり、いろいろなことをしていました。
 でも図書館には、モン語の本、モンのお話の本はありませんでした。モンは元々は文字を持っていないのです。文字は1950年代にアルファベットによる表記法が作られ、今は使われていますが、モン語で書かれた本はやはりあまりなかったのです。
 本はないけれど、モンにはお話がたくさんあります。ずっとずっと遠いむかしから、お話は語りつがれてきているのです。難民キャンプにも、語り部のお年寄りがたくさんいました。私は小さなカセットテープレコーダーを買ってくると、子どもたちに頼んで、お話を録音してきてもらうことにしました。お話は夜話すもので、私たち外国人スタッフは、夜、難民キャンプに泊まることはできなかったからです。毎晩のように子どもたちは「今日はおばあちゃんにお話ししてもらうんだ」とか、「今晩はおじさんがお話ししてくれるって。おじさんはよく知っているんだよ」と、カセットテープを競い合うように持って帰りました。そして録音してきたテープを、翌日みんなが取り囲んで聞くのでした。みんなお話が大好きなのです。私たちは、そのテープを文字におこして、モン語でモンのお話の本を作りたいと思うようになりました。
 サンは毎日一生懸命テープを聞いてモン語を書きおこしていました。あんまり熱心に脇目もふらず書いているので、「少し休んだっていいんだよ」と言うと、「だって、ぼくやりたいんだよ。モンの話はおもしろいんだもの」と言ってペンを走らせていました。
 書きおこした物語に、絵の好きな子がイラストを描いて、謄写版で印刷をしてモンのお話の本ができました。自分たちの力で、モンのお話のモン語の本を作ることができたのです。

 そして、もう一つ。刺繍絵本です。モン族の民族衣装は美しい刺繍やアップリケで飾られています。モンの女の人は暇があれば刺繍をしていて、みんな刺繍がとても上手なのです。女の子は小さいうちからおかあさんの隣に座って、見よう見まねでチクチクと布に針を刺して遊んでいます。少し大きくなったら、大人も顔負けの刺繍ができるようになるのです。民族衣装を飾る刺繍は、この『サルとトラ』みたいな絵柄ではなくクロスステッチなのですが、難民キャンプでは売り物として、モンの山の農作業の様子や、お正月の様子を絵柄として刺繍した壁掛けが売られていました。それをヒントに、私たちは、物語を刺繍して絵本を作ることを考えついたのです。
 物語を書いて、下絵を描くのはたいてい男の子。そして、刺繍するのは女の子。でも男の子の中にも、ロンのように刺繍ができる子もいますけれど……。オリジナルの布には、モン語の文字も刺繍で刺してあります。刺繍で絵本を作るなんて、とても日本人には信じられないかもしれませんけれど、モンの人にとっては絵の具で絵を描くよりも簡単で誰にもできることなのです。「刺繍でだったら、自分にもできるよ」と、いろいろな子どもたちが気軽に作りました。布にボールペンで物語と下絵を描き、そしておねえさんや妹、近所の女の子たちに頼んで刺繍をしてもらいます。そうして刺繍の絵本がどんどんできたのでした。

 その後、難民キャンプは閉鎖されました。故国ラオスに帰還した人々もいますし、アメリカなど、難民受け入れのある国へ定住していった人々もいます。「子ども図書館」に通ってきて、一緒に遊んだり、本作りをした若者たち、子どもたちも、みんな散り散りに移っていってしまいました。
 サンは、難民キャンプを出た後も、自分で刺繍絵本を作ると、私に送ってきてくれました。今はもう結婚してお父さんになりました。きっと、刺繍をした布を子どもに見せてお話ししてあげているのでしょう。
 今、私はラオスの山のモンの村を訪ねて、お年寄りに頼んでお話をしてもらっては録音しています。何代にもわたって、脈々と語り継がれてきたモンのお話を聞いていると、言葉の力のすばらしさをあらためて感じます。しかし、時代の流れは、山の中にも入ってきています。じきにテレビの電波が届いたら、夜のお話語りなどはなくなってしまうかもしれません。
 この絵本は、こうして何世代も口から口へ伝わってきたモンの話と、手から手へ伝わってきた刺繍が合わさって作られた、モンならではのものなのです。
 このたび、日本での出版と同時に、ラオス語版とモン語版も印刷されることになりました。ラオスにいるモンの子どもたち、そしてアメリカなど他の国で暮らすモンの子どもたちにも、日本の子どもたちと同じく、この絵本を届けることができるのです。絵本を手にした子どもたちが「私にだって作れるよ」と、おじいさんおばあさんにお話ししてもらって、刺繍してくれたら、どんなにすばらしいでしょう。
(「こどものとも」2001年10月号『サルとトラ』折込付録より再録)

安井清子(やすい きよこ)
1962年、東京に生まれる。国際基督教大学卒業。NGOスタッフとしてタイのバンビナイ難民キャンプとラオスにて、子ども図書館活動に携わる。著書に『空の民の子どもたち』(社会評論社)、『ラオス すてきな笑顔』(NTT出版)、『森と友だち 川と友だち』(草土文化)、『わたしのスカート』(「たくさんふしぎ」2004年11月号)、訳書に『かたつむりとさる』『サルとトラ』(以上、福音館書店)、『しーっ! ぼうやがおひるねしているの』(偕成社)などがある。現在もラオスでモン族の民話記録などに関わる。東京外国語大学講師。

6月 2, 2006 2001年, エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/05/26

1通の手紙から―『ぐりとぐらとすみれちゃん』のこと  井上博子

 中川李枝子さんから『ぐりとぐらとすみれちゃん』の原稿を見せていただいたとき、「ぐりとぐら」のシリーズで初めて、読者の子どもたちと等身大の人間の女の子が登場してきたのが、印象的でした。そのことを申し上げると、「実はね、すみれちゃんにはモデルがいるのよ」と、すみれちゃんとの出会いをお話ししてくださいました。
 その1年数ヵ月前、盛岡で講演の後、李枝子さんは、1通の手紙を手渡されました。手渡したのは、幼稚園の先生をしていらっしゃるすみれちゃんのお父さんで、手紙はすみれちゃんのお母さんからでした。手紙には、すみれちゃんが4ヵ月前、脳腫瘍で4歳の命を閉じたこと、生前、元気なときも、病院のベッドでも、「ぐりとぐら」の絵本を本当に楽しんだこと、何も食べられなくなってからも、『ぐりとぐらのえんそく』のお弁当の場面を開いて、「今日はこれにする」と、食べる真似をしていたことなどが綴られていました。そして、最後に、娘に幸せな時間を与えてくださって、ありがとうございましたとお礼の言葉が述べられていました。

 それから、李枝子さんとすみれちゃんのお母さんの間に文通が始まりました。かぼちゃと納豆が大好きで、食いしん坊で、とっても元気な女の子。手紙のやりとりを通じて、李枝子さんの中にすみれちゃんの姿がくっきりと浮かび、そして動き始めました。「すみれちゃんに、絵本の中で、楽しい時間を過ごして欲しいと思って書いたのよ。すみれちゃんが楽しいときを過ごしていることが、お母さんやお父さんにとっても救いになると思うの」と、大きなかぼちゃを抱えているすみれちゃんの写真を見ながら、李枝子さんは話してくださいました。
 山脇百合子さんが絵を描かれるときには、元気だったころのすみれちゃんの写真が何枚も届けられていました。絵本が出来上がって、表紙を開いたすみれちゃんのご両親は、扉のすみれちゃんの後ろ姿の絵を見て、「すみれがここにいる!」と、驚かれたそうです。写真の中には、後ろ姿のすみれちゃんはなかったのですが、百合子さんの画家としての目が、すみれちゃんの姿を見事にとらえ、生き生きと描き出していたのです。
 『ぐりとぐらとすみれちゃん』を編集中のある日、すみれちゃんのご両親が、盛岡から福音館を訪ねてこられました。大きな大きな紙袋を持って。紙袋の中から、きれいな箱が何個も出てきて、その箱の中には、すみれちゃんのお母さんの手作りのかぼちゃのスフレがたくさんはいっていました。そのスフレのおいしかったこと! ぐりとぐらの周りに集まって、大きなカステラをよばれる森の動物たちのように、編集部のみんなでお腹いっぱいいただきました。
(『ぼくらのなまえは ぐりとぐら』福音館書店母の友編集部編 より再録)

井上博子(いのうえ ひろこ)
1949年、福岡県に生まれる。1972年福音館書店入社。母の友編集部を経て、1989年よりこどものとも編集部。現在こどものとも第二編集長。

5月 26, 2006 2000年, エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/05/19

これぞ、山姥―『まゆとおに』によせて  富安陽子

 山姥と、その一人娘のまゆという女の子の物語を初めて書いたのは、まだ大学生の頃でした。“山姥の錦”という民話を読んで、その中に出てくる、“山姥のお産”というモチーフが面白くて、「子どもを産んだ山姥は、どんなお母さんになったんだろう」と思ったのを覚えています。それが、お母さん山姥とその娘の物語を書こうと思い立ったきっかけでした。
 でも、いざ原稿用紙に向かうと、ざんばら髪を振り乱した妖怪のイメージがあまりにも強すぎて、子育てをする山姥というキャラクターはなかなか浮かんできません。必死にがんばっても、気のいいおばあさん山姥までが精一杯でした。ところが、そんなある日、大学から帰宅途中の山手線の中で私は、“これぞ、山姥”という人物に遭遇しました。

 その人は年齢不詳のおばさんで、やせっぽちで背が高く、つるんとした卵形の顔の上に、髪をひっつめ、小さなおだんごをのせたようなマゲを結っていました。背筋をピンと伸ばして、私の向かいの座席に座り、ひざの上にはでっかい紙袋をかかえています。そして時折その紙袋の中をこっそり覗いては、さも楽しげに笑うのです。私はどうしても袋の中身が知りたくて、池袋で降りるはずの山手線に居座り、上野駅までその人についていきました。上野駅直前で、山姥おばさんがついに取り出した袋の中身。それは実に、色とりどりの可愛い下着でありました。
 その人に逢ってから私の心の中には新しい山姥が住みつき、おかげで何編かの“やまんばとまゆ”の物語を書き上げることができました。そして、その物語をまとめた『やまんば山のモッコたち』(福音館書店)は、私の記念すべき単行本第一作となったわけです。
 今回“やまんばとまゆ”を主人公に新しい絵本『まゆとおに』を作ることになり、私は久々に、背高のっぽの山姥と、元気で力持ちのまゆに再会しました。単行本出版の折り、挿絵を描いてくださった降矢ななさんが、今回も広々とした絵本画面に元気一杯のまゆを描ききってくださっています。懐かしい山姥山の雑木林の中で、また、まゆや山姥とともに、新しい作品を紡いでいけることは、大きな喜びです。
(「こどものとも」1999年4月号(517号)折込付録より再録)

富安陽子(とみやす ようこ)
1959年、東京生まれ。3歳から大阪で育つ。高校在学中より童話を書きはじめた。主な作品に、『クヌギ林のザワザワ荘』(あかね書房)、「小さなスズナ姫」シリーズ(偕成社)、『やまんば山のモッコたち』『菜の子先生がやってきた!』『菜の子先生は大いそがし! 』(以上、福音館書店)、絵本の文に『つきよのかっせん』『ケンカオニ』『まゆとおに』『まゆとブカブカブー』『まゆとりゅう』(以上、福音館書店「こどものとも」)などがある。大阪府在住。

5月 19, 2006 1999年, エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/05/12

「ホネホネさん」と私  にしむらあつこ

 今から10年前に、私は絵本作家を目指すことに決めました。デビュー作『ゆうびんやさんのホネホネさん』が出版されたのは、8年前。「こどものとも」に、幼い時から慣れ親しんできた私は、初めての絵本はぜひ「こどものとも」がいいな〜と思い、出版社へ持ち込みをしました。服飾の学校を卒業し、特に絵の勉強はしていませんでしたが、出版社にラフスケッチをもっていっては直し、また見てもらうことを繰り返したこの時期が、絵本の学校のような感じでした。そんな中から、『ゆうびんやさんのホネホネさん』が誕生しました。
 郵便屋さんを主人公にしたのは、私がもともと手紙を書くのが好きだったからかもしれません。新しい記念切手が出ると、ついつい気になって買ってしまいます。子ども時代、私は山と湖の町で育ったので、ホネホネさんの住む町も、自然が身近なのんびりした風景にしようと思いました。そして、ホネホネさんがいろんな人に郵便を届けることが、その当時の私の心境(いろんな人とつながっていたいな~)と重なり、思い入れ深い作品となったように思います。
 はじめは、ホネホネさんはガイコツだし、皆さんに受け入れてもらえるだろうかと心配でもありました。ところが、出版されてからしばらくして、読者の方からたくさんお便りをいただいたのです。私の伝えたかったことが、そのまま伝わったのだな~と、自信になり嬉しかったです。その時のうれしさは、今でも私の絵本づくりのエネルギーになっています。

 「ホネホネさん」は、その後、編集の方から「次のお話を考えてみない?」と誘ってもらいながら、この夏で5冊目になります。8年の月日の中で、青年だったホネホネさんも結婚し、子どもが生まれてお父さんになりました。私自身もホネホネさんを追いかけて、結婚し、昨年子どもが生まれました。(きっと私は心のどこかでホネホネさんを頼りにしているのでしょう~<笑>)人生の道先案内人です。
 今は1歳になる息子と日々過ごしながら、制作しています。日中に仕事をしようとすると、私のもっている紙やペンを取りあげて邪魔をするので仕事は無理です。夜寝たのを見計らって、机にむかいます。今度出る『ホネホネさんのなつまつり』(「こどものとも」2006年7月号)も、そんな中で描きました。手紙を書いたり、小包を届けたりすることで、人と人がつながったり、潤ったりする身近な喜びを、これからもホネホネさんといっしょに伝えていけたら嬉しいです。
 元気が出るような絵本をつくりたい! でも、絵本づくりはとても奥深いのです。ダラダラと時には遊んだり、学んだりしながら、エネルギーをためて絵を描いていこうと思っています!

にしむら あつこ(西村温子)
1972年、東京に生まれる。文化服装学院で洋裁を学ぶ。卒業後、絵本の制作を始める。自作の絵本に、『ゆうびんやさんのホネホネさん』『ゆきのひのホネホネさん』(ともに「こどものとも傑作集」で発売中)、『はるかぜのホネホネさん』『あきいろのホネホネさん』(ともに「こどものとも年中向き」、以上、福音館書店)、『野をこえて』(ビリケン出版)、さし絵に『オーパーさんのおいしいりんご』(金の星社)、『コブタくんとコヤギさんのおはなし』(福音館書店)、『おともださにナリマ小』(フレーベル館)などがある。「おおきなポケット」(福音館書店)に、マンガ『ハスの池小学校』を連載中。

5月 12, 2006 1998年, エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (1)

2006/04/28

金関さんのこと−『カニ ツンツン』について  元永定正

 1966年、金関さんとの初めての出会いはニューヨークであった。帰国してからもパーティーで会ったり、2、3度お住まいにも伺って泊めていただいたり、時々しか会えなかったけれど、金関さんとはいつも心の通う時間があった。
 絵本を作ろうという話がでたころ、金関さんは入院された。それからも2、3回お会いするチャンスがあった。割合お元気だったのに、昨年(1996年)7月帰らぬ人となってしまわれた。しかし絵本の原稿はできていたのである。これは感激だった。聞くところによると、苦しい時、もうできないといっておられたようだが、その生死のなかで、金関さんの最後の原稿はできあがっていたのだった。それは、私の絵を意識しておられたからかもしれないが、何とも底抜けに明るくてリズミカルで楽しさがあふれている、おもしろさいっぱいの作品になっていた。とても生死を戦うなかで書かれたものとは思えない。どんな時でも遊び心を忘れない金関さんのおおらかな心が感じられる作品である。
 再び入院されたことを聞いたある日、詩人で小説家で写真家というナンシー・ウッドの著書を金関さんが翻訳された『今日は死ぬのにもってこいの日』(めるくまーる社)が届いた。今、何でこれが送られてきたのかと、私は驚いた。それからしばらくして彼に会ったのだけれど、「あ、あれね」と笑っておられたのも印象深い。

 「カニ ツンツン」はアイヌが聞いた鳥のさえずる声らしいし、英語の幼児語や三味線の拍子、インディアンの部族名や人の名前などが寄せ集められ、金関流儀に調子よく片仮名で並んでいる。私は金関さんの詩のリズムを楽しみながら、私の形と私の色彩で一気呵成に仕上げた。「カニ ツンツン」の小さな赤い形は、頁をめくるたびにそれを捜す楽しさもと付け加えたが、この絵本は言葉のリズム、形のリズム、色のリズムなど、快いリズムいっぱい溢れる作品になったと思う。楽しい絵本になりました。ありがとう。金関さん。
(「こどものとも」1997年6月号折込付録より再録)


元永定正(もとなが さだまさ)
1922年、三重県に生まれる。1955年、関西を拠点にする「具体美術協会」に参加。1964年の現代日本美術展での優秀賞受賞をはじめとして、さまざまな国際展等で活躍。1983年には第15回日本芸術大賞を受賞。日本を代表するモダンアートの作家として、絵画、立体、版画、パフォーマンス、パブリックアートなど、国内外で精力的に活動を続ける。作品は、東京国立近代美術館、ニューヨーク近代美術館など国内外の美術館に収蔵されている。絵本作品に、『もこ もこ もこ』(文研出版)、『ころ ころ ころ』『がちゃがちゃ どんどん』『もけら もけら』『カニ ツンツン』(以上、福音館書店)などがあり、最新刊に、意味のないことばと抽象画の不思議な組み合わせを100組まとめた本、『ちんろろきしし』(福音館書店)がある。

金関寿夫(かなせき ひさお)
1918年、島根県に生まれる。同志社大学英文科卒業。神戸大学、東京都立大学などの教授を歴任。ガートルード・スタインの詩、北米インディアンの詩の紹介などをとおし、現代における言語芸術の可能性を探究する。主な著書に『魔法としての言葉−アメリカ・インディアンの口承詩』(思潮社)、『現代芸術のエポック・エロイク−パリのガートルード・スタイン』(青土社、読売文学賞受賞)、訳書に『おれは歌だ おれはここを歩く−アメリカ・インディアンの詩』(福音館書店)、『今日は死ぬのにもってこいの日』(めるくまーる社)などがある。1996年7月逝去。

4月 28, 2006 1997年, エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (1)

2006/04/21

言葉には魂がある!−『バオバブの きの うえで』について  都 美納

 この昔話を語ってくださったジェリ・ババ・シソコは、マリ共和国でいちばん人口の多いバンバラ族の、伝統的な語りの匠(ジェリ)です。フランスから独立したマリには国営放送局ができました。そして10年目、ジェリ・ババの登場は大ヒットでした。週1回滑稽ばなしを語ったのですが、それが続いた1年間というもの、土曜の夜はマリ中の人間が一人残らずラジオの前に集まって笑いころげたといいます。

 文字を使うことをしなかった西アフリカには、専門的に技を磨いた語り部たちがいて、王の重臣あるいは漂泊の芸人として、その歴史や生活や愛を豊かに伝えてきました。
 「言葉には魂がある!(ニヤマ・ベ・クウマ・ラ)」と彼らはいいます。「預言者は書かなかった。その結果、彼らの言葉の、なんと生き生きと生命に溢れていたことか。声のない書物の中に凍りづめにされた知識、ああそれは、なんと貧しく寒い知識であろうか」とも。
 このお話の、言葉を知らないはずの男の子の歌もまさに魂の言葉。とりわけ古くからの自前の信仰をもつバンバラの人たちには、万物に精霊を認める、きびしいけれど調和的な宇宙感覚が根深く息づいているようです。

 師は、この国の公用語と定められたフランス語を決して口にしません。画家ラミンと通訳をしてくれる友人とわたしは、連日、師を囲んで、絵本をつくれるようなお話を紹介していただきました。そして『バオバブの きの うえで』のお話が出ると、全員「これ!」といっぺんに決まりでした。
 数日後、満天の星の下、ラミンの家で披露してくださった、本格的なこのお話のひき語りは……子どもも大人もしばらくは声を失ってしまったような至福の時でした。
 なぜか幼いころから絵を描くのが好きで好きでというラミンの絵は、あの師のまなざしと声を、どこか三味線の太棹にも似たンゴニの音色を、日本の子どもたちにも運んでくれるようです。マリの魂(いのち)のひびきとなって。
 (「こどものとも」1996年6月号折込付録より再録)

都 美納(みやこ みな)
1934年生まれ。日本女子大学文学部国文科卒業。1991年まで出版社勤務。訳書に『マンディングとテムネの昔話』(同朋舎「アフリカ昔話叢書」)、「バートンさんのどうぶつ日記」シリーズ(こぐま社)などがある。

*4月26日から東京都世田谷区の玉川高島屋で開催される“ぐりとぐらのともだちあつまれ! 福音館書店「こどものとも」絵本の世界展”の会場では、このジェリ・ババ・シソコさんが語る『バオバブの きの うえで』の録音をお聞かせしています。またラミン・ドロさんの原画も1点展示しています。(このイベントについてはこちらをご覧ください)

4月 21, 2006 1996年, エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/04/14

ルーツを求めて−『はじめてのかり』のこと  唐 亜明

 私はモンゴルに3度行ったことがあります。2度は30年前、人民解放軍の士官として中国領の内モンゴル自治区にソ連侵攻の防御線を築くためでした。3度目は15年前、日本人の友人と一緒に、文化大革命のさなかソ連へ亡命する途中、モンゴル共和国の大草原に墜落したといわれている、毛沢東の法廷後継者、林彪の飛行機残骸探しの旅でした。
 この時、ウランバートルでモンゴル有数の画家ムンフジンさんと出会いました。髪のまっ白な彼をお年を召した大先生だと思いこみ、何度頭を下げておじぎをしたことか。後になって、なんと彼は私と同じ年だと分かりました。しかし彼がモスクワで美術を学んでいたころ、私はモンゴル大草原を隔てた中国側で、ソ連の大戦車軍団が草原の向こうから攻めてくると思って塹壕を掘っていたのです。

オノン先生とは16年前、先生が東京外国語大学の客員教授でいらしたころ知り合いました。先生は私の名刺と顔を見て、おもむろに「君はモンゴル人だ」と言い出しました。そして次のように言われました。「私は歴史学者だ。中国人のなかで、唐、胡、于、狄などの姓の人は、モンゴル人の子孫だと分かっている。日本人にもモンゴル人の子孫はたくさんいるが、名前だけでは分からない」と。先生はその理由を詳しく説明してくださいました。
 私は半信半疑でした。この時、先生の自伝『わが少年時代のモンゴル』(原もと子訳、学生社)をいただきました。この本を読み、深く感動しました。そして、先生の小さいころの体験や見聞に基づいて絵本をつくりたいと思いました。オノン先生のご協力を得てお話を再創作し、郵便事情の悪いモンゴルとの間で絵のやりとりをして、5年がかりでやっとこの絵本『はじめてのかり』を完成させました。
 日本の子どもたちは、この自分の日常生活とまったく違う世界をどう受けとめるでしょう。
 たくましい遊牧民族の狩猟は、人類最古の生産活動であり、狩猟文化は、人類の大切な文化です。
 考えてみると、この本をつくりたいという気持ちは、もしかしたら、自分の体に流れる血の源を求める本能から生まれたのかもしれません。
(「こどものとも年中向き」1996年2月号折込付録より、「○年前」の部分だけ現在から数えた年数に直して再録)

唐 亜明(とう あめい)
1953年、北京に生まれる。新聞記者などを経て、1983年来日。早稲田大学文学部卒業、東京大学大学院修士課程修了。現在、福音館書店に勤務し、絵本の編集に携わるかたわら、東洋大学、早稲田大学で非常勤講師を務める。主な著書に『ビートルズを知らなかった紅衛兵』(岩波書店)、『翡翠露』(TBSブリタニカ、第8回開高健賞奨励賞)、絵本の文に『ナージャとりゅうおう』(講談社、第22回講談社出版文化賞絵本賞)、『西遊記』(講談社、第48回産経児童出版文化賞)、『ちょうちんまつり』『はじめてのかり』(以上、福音館書店)、『十万本の矢』(岩波書店)、『石からうまれた孫悟空』(偕成社)などがある。東京在住。

4月 14, 2006 1995年, エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/04/07

<作家インタビュー>『サラダとまほうのおみせ』が生まれた日  カズコ・G・ストーン

 マーガレット・ワイズ・ブラウンの『おやすみなさい おつきさま』(評論社)を、3歳の娘に読んでやっていた時のことです。部屋の中にあるもの、テーブルや椅子などに、「おやすみなさい」と言っていく絵本なんですが、ページを繰るたびに、娘が「あ、ここ」とか「そこ」とか言ってるんですね。私も「え、何?」って、何を見てるのかと思ったら、絵の中に小さなネズミがいたんです。そのネズミがページごとにちがう所に移動しているんです。私はそこにネズミがいることに、気がつかなかったんですね。娘は小さなものを見て、指で追っていたんです。
 「ああ、子どもってのは、こういう小さいものに目がいくんだなあ」と思ったのが、昆虫を小さいサイズ、実物と同じくらいのサイズで描こうと考えたきっかけです。大人の感覚では、小さい子は小さいものは見えないのではないかと、いろいろなものを大きく描くでしょう。でもその必要はないんじゃないかと思いました。見えないのは、むしろ老眼になった大人で(笑)。
 この作品の前は、私はずっとワニのシリーズの絵本を描いてたんです。その時は、ヤシの木が描きたくてしょうがなかった。ヤシの木と熱帯雨林みたいなものが描きたくて。それで10冊くらい描いたら「もう、ヤシの木はじゅうぶん描いたなあ」って、なんだか、日本ふうの、風にそよいでいるヤナギを描きたいなあって思ったんです。それで「やなぎむら」というのを描こうと思いつきました。

 もともと、植物と昆虫が好きだったんです。中学生くらいまで、昆虫採集をしてましたから。昆虫に関しては、ハートで覚えている、というか、足の形とかがパッと浮かんでくるんです。実家は東京の荒川のそばなんです。土手があって、今はコンクリートで固められてるんですけど、昔は草ぼうぼうで、そこでいつも、バッタをつかまえたり、チョウチョを追いかけ回したり。川だから、メダカもいたし、ザリガニもいました。
 母の話によると、小さい時から、昆虫が飛んでいるととびだしていって、「トンボ、トンボ」とかいって、捕ってもらわないとおさまりがつかない。おじいちゃんや父親が、あわてて捕りにいく。自分で捕れるようになると、あちこち連れていってもらって、網持って走り回ってた。カミキリムシ、コガネムシだとか、石の下にいるハサミムシやダンゴムシなんかも、よく見るときれいな形をしている。
 アメリカにきた時、ここは広い国だから、きっといろいろな昆虫がいるだろうなと楽しみにしていたら、ほとんどいなかったのでがっかりしました。全体的に乾燥している国だからでしょう。その点、日本は昆虫の宝庫だと思います。

 小さい時から、絵を描くのも好きだったんです。作文も小学生の時から好きだった。子どものころ好きだったことが全部いっしょになって、今、絵本を描いているんだと、最近になって思いました。
 このシリーズも、最近はとなり村も出てきちゃて、地理的に、右にあったものが、次の絵本で左に出てきたらまずいでしょ。それでこのあいだ、立体の地図を作ったんです。最初は地図を描いたんだけど、私は地理音痴なところがあって、こっちいった時に左に見えてたのは、帰りには右に見える、というのをわかるために、立体で作りました。
 となり村のことも4、5冊描きたい。最終的に、みんなが知ってる昆虫をだいたい全部出したいんですね。あんまり変わったのは別にして。今までのお話では、モナック蝶だけは、日本にいない。アメリカではよく見るんです。日本でモンシロチョウが飛んでるくらい、ポピュラーで。
(「こどものとも年中向き」2001年9月号折込付録より一部省略して再構成)

カズコ・G・ストーン
多摩美術大学グラフィックデザイン科卒業。1973年、渡米。主な絵本の作品に『おやすみわにのキラキラくん』『おやすみクマタくん』、「やなぎむらのおはなし」のシリーズには『サラダとまほうのおみせ』『ほたるホテル』『きんいろあらし』『ふわふわふとん』、となり村のお話に『しげみむら おいしいむら』、『しのだけむらのやぶがっこう』(「こどものとも」556号、本年6月中旬「こどものとも傑作集」で刊行予定)、『みずくさむらとみずべむら』(「こどものとも」580号)があり、今年の「こどものとも」9月号(606号)で『くぬぎむらのレストラン』を刊行の予定(以上すべて福音館書店刊)。アメリカでも多数の絵本を出版している。

4月 7, 2006 1994年, エッセイ | | コメント (1) | トラックバック (0)

2006/03/31

『ジャリおじさん』顛末記   澤田精一

 月刊絵本「こどものとも」の担当になったのは、中年になってからの43才のことでした。それまでは黒インク1色、活字で組んだ児童文学評論誌「子どもの館」を編集したことがあって、全ページオールカラー、1冊が1作品というのは初めてでした。ですからベテランの作家とまず仕事をして絵本の編集を学ぼうと思っていたら、新人作家を捜しなさいという編集長のお言葉。それで新人作家を捜しましたが、なかなかこうだと思える人に出会えません。図書館、画廊、美術館をうろうろしながら、どうしたものかと悩みました。
 結局、外であれこれ捜すよりは、自分の裡に記憶されている作家とやろうと思い定まるまで、いささか時間がかかりました。となると大竹伸朗さん。でも、第一線で活躍している現代美術作家が絵本を描きたいというのだろうか。描くか、描かないかわからないのに、遠く愛媛県宇和島までの出張が許されるのだろうかというのが、すぐさま次の悩みとなりました。
 でも、そこはよくしたもので、ほどなく西武・池袋で、大竹さんの個展(大竹伸朗の仕事ECHOES 55-91)があり、会うことができたのです。その時の大竹さんは30代。黒ずくめの服、感受性が全身にびりびりとみなぎっていて、一瞬ひるみました。おそるおそる絵本のことを話すと、なんと、やってみたいという返事なのです。そして宇和島にずっといるのではなくて、何度も上京していると聞き、それからというもの月に一度はあれやこれや絵本について話すことができました。長新太さんの絵本が好きだということも、その時わかりました。
 そうして半年ばかり経過したとき、「できました」という電話を受けとったのです。私は鉛筆で簡単に描いた絵に文章がついたラフがあがったのかと思ったら、原画がすっかり仕上がっていました。そして後になって聞いたのですが、この原画を仕上げるまでに、なんと100枚以上のスケッチやらエスキスを油絵で描いていたのです。(原画はペンとインク、色鉛筆なのに、どうしてエスキスは油絵なのかと質問したら、油絵のほうが手になじんでいるということでした。)

 文章はその後、何度もなおしながら仕上げていくことになります。
 1993年に8月号として刊行。さっそく西武・池袋で原画展、それから新聞、雑誌、さまざまなメディアでもとりあげられました。翌年、小学館絵画賞受賞。翌々年、BIB(ブラチスラバ世界絵本原画展)金杯受賞。それよりも感動したのは、『ジャリおじさん』を読んで、これなら自分でも描けるのではないかということで、何人もの人が絵本を持ち込んできたことです。
 出版当時、読者だった子どもたちは、今では大人となり、今度は大竹さんの個展に出向いて、小さい頃『ジャリおじさん』を読みましたという話を何度も聞いたことがあります。絵本というのは、いつの間にか、自然にそこにあるものになっていくんですね。
 さて、今年、10月14日から2ヵ月間、東京都現代美術館で大規模な回顧展「大竹伸朗 全景 1955-2006」が開催されます。3フロアー使っての展示は、日本人としては初めてだそうです。『ジャリおじさん』の原画も全点展示されるようです。あの宝石のような絵に10数年の時を経て再会できると思うと、今からわくわくしています。

澤田精一(さわた せいいち)
1948年、千葉県に生まれる。1973年福音館書店入社。「子どもの館」「こどものとも」「こどものとも年少版」「かがくのとも」各誌を担当。

3月 31, 2006 1993年, エッセイ | | コメント (1) | トラックバック (1)

2006/03/24

トッケビって       チョン・スクヒャン

 トッケビって困った奴です。私がハルモニ(祖母)から聞かされたお話では、針の穴のような障子のすき間からピューと入ってきて、生き血をぬきとる足のないものですが、この『おばけのトッケビ』のお話ではちゃんと足はあるのです。
 では、指は何本あるのか、顔はどんな形をしているのか。人をだましたり、宝や子どもを奪ったり、とにかく悪さばかりをするバケモノではあるものの、姿、形はお話ごとに違って、どれもはっきりしないのです。しかも活動舞台は決まって闇夜。これでは絵本になりません。
 このトッケビを絵本にしようと決心してからというもの、1年以上悩みに悩みました。何度、夜中にうなされたことやら。本当にトッケビって今でも存在するんですね。それでついに「わからないものは、そのままそっとしておこう。こちらがかってにトッケビを作りだしたら、それこそ自由自在に変化するトッケビを殺してしまいかねない」と、考えついたのです。
 そこで、トッケビには我が国の仮面劇の仮面と衣装をすっぽり被ってもらって、その本当の姿は、この本を見る人たちに自由に想像してもらうことにしました。

 仮面劇は今でも愛され続けている民衆芸能で、民衆的息吹に満ち溢れています。この仮面は日本の能のように定形化されたものではなく、非常に素朴で土着的です。劇の内容も、支配者にいじめられている民衆がはつらつと動きまわり、知恵をだしあって、最後にコロリと相手をやりこめてしまうというコミカルなものが多く、まったく、トッケビにぴったりなのです。
 このユーモラスな背景をもったトッケビに、この絵本のなかいっぱいに動きまわってもらって、どんな苦しい時代にあっても笑いを忘れないで、快活な仮面劇を踊りまわって生き続け、楽しいトッケビ伝説を残してくれた民衆の息吹を、少しでも豊かに表現しようと心を込めて描いたつもりです。
 (「こどものとも」1992年8月号折込付録より再録)

チョン・スクヒャン(鄭 〓香 正しくは「鄭」は旧字、〓は「淑」の偏を“さんずい”ではなく“王偏”にした字です)
1944年、韓国・全羅南道に生まれる。弘益大学東洋画科を卒業後、京都市立芸術大学に学ぶ。個展や多数のグループ展を開催。1986年祇園祭山鉾「八幡山」の水引原画を作成。韓国美術協会会員。絵本に『フンブとノルブ』(鶏林館書店)、『おどりトラ』『おばけのトッケビ』『こかげにごろり』(以上、福音館書店)などがある。京都府在住。

3月 24, 2006 1992年, エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/03/17

<作家インタビュー>『もりのひなまつり』が生まれた日  小出保子

 私は、人形が嫌いな子だったらしいんです。物心ついた時には、まわりに人形というものがなかった。それで母に「人形がほしい」といったんですよ。そうしたら、「あなた、ちっちゃい時に人形が嫌いで、買ってやろうとしてもいやがったのよ」という話で、そういわれてみると、人形って気持ち悪かったのかなあって、後で思うんですけどね。
 市松人形のすごく立派なのを、隣のきょうちゃんっていうお姉さんが疎開するんで、自分の身代わりという形で私にくれたんです。ところが、私がとっても悪い持ち主でね(笑)。顔は汚れるし、髪はぐじゃぐじゃになるし。そうしたら、ある夜、きょうちゃんがやってきて、人形を返してくれっていうんですよ。母も驚いて、「すごく汚しちゃったから」っていったら、それでもかまわないから返してほしいって、それで返したんですけど。ほっとしたから、やっぱり人形はきらいだったんですね。
 でも、嫌いなんだけど、嫌いなものって見ずにはいられない。興味をそそられるじゃないですか。3月に飾られるお雛様もね、なんかこう、動いてるんじゃないかという気がする。目をちょっとそらした隙に動いてるとかね。

 それと育ったのが田舎の古い家で、鼠が多かったんですね。ちょろちょろ出てきていて。お雛様を飾った夜、鼠が天井からおりてきて、母の寝床にもぐりこんだ事件があったんです。本当に大きな鼠だった。年寄り鼠だって、父はいうんですけどね。母の足にさわって、とっても冷たい手だったそうです。鼠は廊下の暗闇に消えてしまったけど、何かやっぱり、お雛様に用があったんじゃないかと。ひょっとすると、鼠と人形が友だちというかね、何かあやしいんじゃないか、と思って。
 例えば道を歩いていても、風もないのに葉っぱが1枚だけ揺れていたりすると、それは何かの印でね、何かそこにちっちゃなものがいるんじゃないか、って思うんです。そんな小さなものの世界が好きで、そういう世界を知りたいと思っていて、そのひとつの方法で、お雛様と鼠の話になったんだと思います。
 お雛様はすましてるけど、実は毎年、鼠たちとこっそり何かしているんじゃないか。そう考えてワクワクしてしまって。お雛様と鼠たちは、代々こんなことをしてきたんじゃないかと思えてくるんですね。
 小学生から、『もりのひなまつり』が楽しかったという手紙が何通かきて、その中に「私は雛人形が大嫌いです」という女の子がいたんです。「やっぱりこういう子、いるんだ」って、ほっとしたんですけど。その子も、「嫌いだったんだけど好きになった」といってくれて、ちょっとはよかったかな、って思いました。それと、男の子がけっこう楽しかったっていってくれて、すごくうれしかったです。
(「こどものとも年中向き」2001年3月号折込付録より一部を再録)

小出保子(こいで やすこ)
福島県に生まれる。桑沢デザイン研究所卒業。絵本に『とんとんとめてくださいな』(1986年銀の石筆賞受賞<オランダの絵本賞>)『ゆきのひのゆうびんやさん』『はるですはるのおおそうじ』『とてもとてもあついひ』『かさかしてあげる』『おなべおなべにえたかな』『やまこえのこえかわこえて』『もりのひなまつり』『おおさむこさむ』(以上、福音館書店)などがある。千葉県在住。

3月 17, 2006 1991年, エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/03/10

<作家インタビュー>『ねぼすけスーザのおかいもの』が生まれた日 広野多珂子

 スーザのお話を自分の中であたためて8年かかって、それからラフスケッチを編集者に見ていただいてから本になるまでに2年かかったんです。
 結婚して間もない頃に、それまでの絵の勉強の総まとめをしたくて、夫と二人でスペインにいったんです。そこでの生活が見るもの聞くもの新しいものばかり。生活が日本とは全く違って、新しく感じました。
 その頃、日本ではまだ消費文化というか、使い捨ての時代というのか、そういうことが美徳とされていたんですね。わたしの感覚も、古くなった家具はポイッと捨てちゃうもんだ、となっていました。戦後間もない頃に生まれ育って、使い捨てには抵抗があったにもかかわらず、日々の生活の中でそういったものに流されていたんです。
 でも、スペインではそうじゃない。古いものを大事に大事に使って、家具もいたんだものを直して、あるいはペンキをぬって使っている。ひとつのものを本当に大事にしていることに、とっても感動したんですね。
 1週間に一度、近くの市場に買い出しにいくんですが、お肉を買うのに1時間くらい待つんです(笑)。日本だと、5分待つのもイヤ、という感じだったんですけど。待つのも、ならんでいるわけではなく、そこにいったら、まわりの人に「一番最後はだあれ?」と聞くんです。そうすると、「わたし」といってくれる人がいるから、その人の顔を覚えて、「あなたの次、わたしよ」という感じで顔を覚えてもらって、順番を待つんです。わたしが最後で待っていると、またお客さんがきて、「一番最後はだあれ?」と聞くから、「はい、わたし」と答えてあげるんです。ですからきちんとならぶのではなくて、一見たむろしている感じ。そうして長いときには1時間以上待つ。でもそれが、待っていられるゆとりがあるんです。苦にならなくて、楽しかったですね。

 この絵本の舞台は、スペインがもとにはなっているけれど、特定の場所ではないんです。スーザの住んでいる村は、アンダルシア地方でもあり、ラ・マンチャ地方でもある、というわけで。スーザについても特定のモデルがいるわけではなくて、ラ・マンチャでお友だちになった小さな女の子でもあり、自分の娘でもあり、とっても図々しいかもしれないけど、わたし自身でもあるんですね(笑)。
 夫とわたしは、二人で絵を描いていく、ということを誓い合って結婚したんです。それで帰国後、生活が苦しくて、子どもたちが生まれた時にはとても貧しかった。そこで夫かわたしのどちらかが働きに出れば、貧しさというのは解決できるんですけど、そうしてしまったら、どちらかの夢とかそれまでやってきたものをつぶしてしまうことになる。相手の夢とか希望とか、そういうものをつぶして自分がなりたっているということは、お互いにとって不幸なことじゃないかと思うんですね。だから貧しくともがんばったんですけど。
 スーザが最後に一番ほしいものを見つけて、でもそれを買えなかった、その時の落胆の気持、「あーあ」「あーあ」という大きなため息というのは、8年間お話をあたためながら貧しい生活をしていた、その時のわたしの気持なんですね。でもそういう生活の中でも、悲観的にならず、どこか貧しさを楽しむ気持が心の隅にあったんです。それは、スペインでの生活があったからだと思います。
 
 『ねぼすけスーザのおかいもの』は、それまでのわたしの様々な思いがくっつき合って一緒になった本。もう20年、わたしの中にはスーザがいます。スーザが本当に、どこかにいるような気がします。
(「こどものとも年中向き」2002年5月号折込付録より抜粋して再録)

広野多珂子(ひろの たかこ)
1947年、愛知県に生まれる。スペインのシルクロ・デ・ベージャス・アルテスに学び、帰国後、児童書の世界に入る。「こどものとも」の「ねぼすけスーザ」のシリーズに、この『ねぼすけスーザのおかいもの』(419号)のほか、『ねぼすけスーザとやぎのダーリア』(438号)、『ねぼすけスーザとあかいトマト』(470号)、『ねぼすけスーザのセーター』(501号)、『ねぼすけスーザのオリーブつみ』(551号)、『ねぼすけスーザのはるまつり』(589号)がある。その他のおもな絵本に、『ちいさな魔女リトラ』(福音館書店)、『あめだからあえる』(「かがくのとも」351号)、『おさんぽおさんぽ』(「こどものとも0.1.2.」51号)、おもなさし絵の作品には、『魔女の宅急便その2』(福音館書店)などがある。また著書に『テンダーおばあさんと描く やさしい花のペン画』(日貿出版社)がある。

3月 10, 2006 1990年, エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/03/03

『まあちゃんのながいかみ』をかいた頃のこと たかどのほうこ

 幼年童話を何篇か『母の友』に載せてもらっていた頃、「こどものとも」の方から、ストーリーを依頼されました。絵本なんて初めてです。これまでとは違ったお話作りをしなくちゃならないのかもしれない。そう考えて、それまでぼんやり見ていた「こどものとも」をちょっと神妙に開いてみると、まあ何とこの本の横に長いこと! 私は単純にも、横にびゅーんと伸びてるか、ずらずら並んでるもの、または上から下にざあーっと垂れてるか、下から上に伸びてくものといった、とにかく長めの画面を想像し、それに即したお話を作るよりないんじゃないか、と思ってしまったわけでした。
 むろんこれはバカバカしい妄想で、そんなお話しか成立しないのであれば、「こどものとも」のすべては、ヘビだのろくろっ首だのの話で埋め尽くされてしまったことでしょう。
 けれど、この被害妄想の途中で、まあ自然な連想ではあるけれど、『ラプンツエル』のことを思い出したのです。(正確に言えば『ズールビジアの物語』*を真っ先に思い出したんですけど)長い長いお下げにつかまって王子様が塔を登っていく挿絵(思えば太田大八さんの絵でした)にぞくぞくしながら見入ったこと、そしてついでに、その頃夢に描いていた自分の姿のことなどを、続々と思い出したのです。長い三つ編みをなびかせて、さりげなく友達を誘いに行くシーンなどを……。そう、伸ばしたかったんだよなあ……。
 ——と、思いを転がしているうちに、『まあちゃんのながいかみ』の構想は、ほとんどできあがっていたのでした。どんなとっかかりからお話を考え始めても、結局自分の中にあるものに行き着いてしまうということなのでしょうね。良くも悪くも。

 さて、原稿を届ける段になって、ふと心配になりました。文章というにはあまりに短いこの字だけを見せられても、見た人はきっとチンプンカンプンに違いない。ここはもうお節介だろうが、「こういうことなの」と下手な絵で示すしかない。というわけで、豆絵本を作って行きました。「想像場面の華麗さを強調したいので現実場面は、ほらこうやってモノクロにするんです」なあんて言いながら。——そしてこれが、絵にまで手を染めるきっかけになってしまったのでした。(編集者の想像力を正しく見積もっていたなら、事態は変わっていたことでしょう。むむう)
 さて、絵を描き始めたとき、近くに小さな姪がいたのは幸運でした。スケッチしようと椅子にすわってもらうと、椅子の脚の横木にするっと爪先を絡ませてすましています。さすが子どもだとおかしくなりました。横木がなければまっすぐ下におろすしかないところが、あったおかげで子どもならではの表情が出たのです。大道具小道具が表現の手がかりになるんだと気づいたりしました。

 稚拙な絵だけれど殊勝な気持ちで丁寧に作ったこの本。今もまだたくさんの子が喜んでくれるらしいのです。うれしいことです。

*「ラング世界童話全集(6)」『ちゃいろの童話集』(川端康成・野上彰訳 太田大八絵 東京創元社1958年)所収

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『まあちゃんのながいかみ』より
                                                                                                                                                
たかどのほうこ(高楼方子)
1955年函館市生まれ。東京女子大学文理学部日本文学科卒業。絵本、童話、児童文学など、様々な子どもの本を書いている。幼い子どもに向けた主な作品に『まあちゃんのながいかみ』『まあちゃんのまほう』『みどりいろのたね』(以上、福音館書店)、『つんつくせんせいどうぶつえんにいく』(フレーベル館)、『へんてこもりにいこうよ』(偕成社)、『ターちゃんとルルちゃんのはなし』(アリス館)、『のはらクラブのこどもたち』(理論社)などがあり、短編の物語集に『ねこが見た話』(福音館書店)、長編の物語に『時計坂の家』『十一月の扉』(以上、リブリオ出版)などがある。札幌市在住。

3月 3, 2006 1989年, エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (1)

2006/02/24

1980年代から90年代にかけての「こどものとも」  川崎 康男

 1970年代、日本の絵本をめぐる状況は、「絵本ブーム」と呼ばれるようになっていました。それまでに着実に広がってきていた絵本という表現の場に、作り手が新しい可能性を見出して、これまでにはなかった表現の絵本が生まれてきました。すると、今まで絵本の読者ではなかった大人も、絵本に目を向けるようになりました。この二つの動きがお互いを刺激しあって、絵本の表現は多様化し、出版点数も増えていきました。しかし、「絵本ブーム」は、子どもの絵本にとって、必ずしも手ばなしで喜べることではありませんでした。子どもを置き去りにした「大人の絵本」をもてはやしたり、絵本の絵だけに注目して、物語や言葉を軽く見るような傾向も生まれてきたからです。
 80年代に入って、こうした混沌がつづく中で「こどものとも」を編集していた私たちですが、これまでに築かれてきた、子どもの本はかくあるべしという土台の上に立ちつづけることに、迷いはありませんでした。しかし、それだけでよしとするのではなく、この先、もっともっと楽しい絵本を子どもたちに届けていくための推進力として、この時代に生まれてきた多様な表現の中から、子どもの絵本の新しいエネルギーとなるものを見極めて積極的に吸収していくこと、それから、世界各地のお話や絵に目をむけて、表現の幅を広げることが必要だと感じるようになりました。

 新しく生まれてきた多様な絵本の表現の中には、その場限りの目新しさだけで終わってしまうものもありました。しかし、新しい表現というのは、作り手自身が、より納得のいく表現ということであって、決して単に新奇なものということではないはずです。当時、瀬川康男さんがおっしゃった、忘れられない一言があります。そのころ「個性的」ともてはやされていた絵本を評して、「あんなものは個性でもなんでもない。癖を顕微鏡で見ているようなものだ」と言われたのです。癖を顕微鏡で……なんという表現でしょう。「新しい表現」を求めて苦しみぬいているからこそ出てきた、重い言葉だと感じました。
 子どもに真正面から向き合って、伝えたいことを全精力を傾けて表現する、そういう姿勢の中から生まれてくる、ほんとうの「新しい表現」を「こどものとも」は求めていきました。
 70年代の末から90年にかけて、私たちは、瀬田貞二さん、中谷千代子さん、堀内誠一さん、赤羽末吉さんなど、「こどものとも」を中心になって育ててきてくださった方々を失いました。これは、たいへんに淋しく、つらいことでした。しかし、こうした方々が築いてくださった土台の上に、子どもの心を動かすエネルギーをもった、真に個性的な作り手が、つぎつぎに登場してきたのも、この時代でした。
 伊藤秀男さん、織茂恭子さん、片山健さん、菊池日出夫さん、佐々木マキさん、さとうわきこさん、スズキコージさん、西村繁男さん、長谷川摂子さん……。今、日本の絵本をリードしている方々の熱い思いを受けとめながら絵本を作ることができたのは、とても幸せなことでした。

 もう一つ、この時代に私たちは、世界のいろいろな地域に視野を広げていきました。
 現在、「こどものとも」50周年記念として発行している「こどものとも世界昔ばなしの旅」I・IIには、全部で30の、世界各地のお話が入っていますが、そのうちの25冊が1986年以降の「こどものとも」で出版されたものです。特に、86年から94年の9年間に、16冊が集中的に作られています。これらの「世界」のお話の大きな特徴は、アジア、アフリカ、北米、中南米、オセアニアという、これまで日本ではあまり紹介されることのなかった地域のものであることです。この時代までに日本に紹介されてきた「世界」の昔話は、ほぼヨーロッパとロシアのものに限られていました。でも、この地球にはもっといろいろな民族と文化があり、その地域ならではの、魅力的なお話がいっぱいあるのだということに私たちはだんだんと気づいていったのです。
 そして、この「世界昔ばなし」のもう一つの特徴は、絵を、その地域の画家、あるいはその地域で生活した経験のある画家に描いてもらったことです。つまり、日本ともヨーロッパとも異なる風土や文化を土台にした、これまでにはない絵の表現がなされているのです。それは、日本やヨーロッパ、そしてアメリカの絵本の、成熟した、しかし一部では袋小路に入りつつもある絵画表現とは違った、子どもの心に訴えかける素朴な力強さをもった表現でした。
 このような世界各地のお話と絵は、読者の子どもたちを楽しませるとともに、「こどものとも」に新たなエネルギーを注ぎ込んでくれました。

川崎 康男(かわさき やすお)
1949年、東京に生まれる。東京都立大学人文学部卒業後、福音館書店に勤務。1978年より「こどものとも」の編集に携わり、1985年から94年まで編集長を務める。現在「おおきなポケット」編集部所属。

2月 24, 2006 1988年, エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/02/17

絵本の無限の可能性−−堀内誠一インタビュー

絵本という新大陸へ
 福音館で絵本を始めた時代というのは、これから発見して開拓するいろんな大陸がある時代だった。グラフィックデザインだとか都市計画だとか。その一つに、絵本っていう大陸があって、ぼくなんかはそこへ船出してゆくオンボロ帆船の少年水夫って感じでね。でも航海長に瀬田(貞二)さんがいたっていうわけで。
 明るいっていえば明るい時代でしたよね。実際、焼け跡っていうのは明るくてね。賢治の『雪わたり』のように、ふだんは道のないところも、どこでも歩いてゆける−−ファンタスティックな雰囲気が全体に漂っていた。遠くまで見えるしね。

今の絵本の状況
 子どもの本の多様な性格を考えると、あれもやんなくちゃ、これもやんなくちゃと、すべてやってたんじゃ一生かかってもたいへんだと思ってたけど、それぞれ分担をする人が出てきたから、ずいぶん肩の荷がおりたというか、楽になりましたね。
 例えば、生活もの、幼稚園ものとかは、こういうふうに表現しなくてはいけないと思っていたのを林明子さんがちゃんとやってくれたり、何年も地道な取材と観察を重ねる仕事をする人が出てきたり。

何を見せるか
 例えば民話やファンタジーにさし絵なんかいらない、ということもいえるけど、それに挑戦したいというところもあるんですね。手を動かしているうちに、現れてきたイメージに我ながら惹かれるってことがあるから。
 『ふくろにいれられたおとこのこ』で鬼がかついでいる袋が男の子の身体の形になっているシーンなんかも、いろんなやり方があるわけでしょ? 袋の中のまっ暗な画面に、ピトシャンがいる、というようなやり方もありますね。
 このピトシャン・ピトショの話は一人称で書かれてはいないけれど、絵でそれを示してもいいんです。ただうんと小さい子っていうのは、想像力は無限にあるくせして、自分の持っている体験の数っていうのは極度に少ないわけですね。だからもしかしたら、あのシーンを視覚的に無理してまで一人称表現しても伝わらないかもしれない……と、一つの話の中で、ぼくはほんとうに三つも四つも考えちゃうんですよ。だからいつもその一部しか使っていない、これが一番いいのかなっていう危惧がある。一つの話から無限の可能性があるわけですね。

子どもの官能性
 生きてる喜ばしさっていうのは、目とかの五感や言葉とかで触るっていうことでしょう? 女の人なんかが魅力的な服装をするっていうのは、目で触ってもらってるという喜びがあるわけだから。結局人間は、触る、触られるということを、いろんな現実に形を変えてやっている。赤ちゃんは、直接に外界と関わる場合、絵本もいらないぐらいの感応性をもってるわけですよ。だけど子どもは、将来そういうんじゃない世界っていうのに旅立たなければならない。だからいろんなイメージの発散しているものの味わい方、触るということと匹敵する味わい方、というのを持って旅へ出ていかないと、ということで絵本とかがあるんじゃないですかね。

(「こどものとも」1986年7,8,9月号折込付録掲載の長谷川摂子によるインタビューより抜粋)

堀内誠一(ほりうち せいいち)
1932年、図案家を父に東京都向島に生まれる。14歳で伊勢丹の宣伝部に入社。1958年、はじめての絵本『くろうまブランキー』(福音館書店)が刊行される。以後多くの絵本を描いた。また「アンアン」や「ブルータス」など、雑誌のアートディレクターも務めた。「ポパイ」「クロワッサン」(以上マガジンハウス)「エッセ」(扶桑社)のロゴも堀内氏の手によるものである。1960年、及び1973年〜81年までパリに滞在。1987年逝去。

 「こどものとも」として発表され、現在も「こどものとも傑作集」として刊行中の絵本に『くるまはいくつ』『くろうまブランキー』『ぐるんぱのようちえん』『こすずめのぼうけん』『たろうのおでかけ』『たろうのともだち』『たろうのひっこし』『パンのかけらとちいさなあくま』『てんのくぎをうちにいったはりっこ』があります。
 さし絵の仕事には多数ありますが、意外に知られていないのは、『しずくのぼうけん』(テルリコフスカ作 ブテンコ絵 内田莉莎子訳 福音館書店)の書き文字が堀内誠一さんによるものだということです。
 絵本についての著作には、『絵本の世界 110人のイラストレーター1・2』(福音館書店)、『ぼくの絵本美術館』(マガジンハウス)などがあります。

2月 17, 2006 1987年, エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/02/10

<作家インタビュー>『エンソくん きしゃにのる』が生まれた日  スズキ コージ

 何となく、あっという間に下描きができてしまったんですよね。汽車が終点まで走っていく、というだけの話で。
 僕は、静岡県の浜北市の生まれなんです。子どもの頃、田舎の駅なんだけど、そこに行くとおもしろいわけですよ。貨物列車があったり、いろんな人が乗ったり降りたりしてる。だから、気が向くと駅で遊んでた。鉄道マニアではないけれど、そういう乗り物は好きだった。それを描いてみたい、という気持ちがありました。
 エンソくんが切符を買う時、いいちがえますが、あれは身近な話で、小学校1、2年の頃に、僕の乗る駅は小松というんですが、そこで本当は浜松まで買わなきゃいけないんだけど、ドキドキしちゃってるもんだから、小松の駅で「小松までください」なんてことがあったんです。
 よく、「エンソくんの世界はどこの国?」と聞かれるんですが、どこの国でもないというか、僕が目をつぶると、確かにある世界。そういうことになると思う。
 「エンソくん」というのは、スイソくん・サンソくん・チッソくん……と化学記号をいろいろ考えたんですけどね。やっぱりエンソくんだと、ちょうど「遠足」になるしね。
 高校の頃、住宅難で、押し入れを改造して暮らしてたんです。鉛筆や消しゴムもひもでぶら下げて、何でも手が届く、人工衛星のようにしてました。そこにポータブル電蓄を持ち込んでビートルズを聞いていたんですが、なぜか1枚だけ、広沢虎造の浪曲のレコードがあったんですね。「清水次郎長伝」というそのレコードを聞くと、「ホゲタの久六が〜」なんてくだりがあるんですよ。そのホゲタという言葉の響きがとても印象的で。それを聞いたのが高校2年の時ですから、ずっと心の中に残ってたんですね。それで「エンソくん……」の駅の名前をつける時に「ホゲタ」としました。
 絵本て、僕の場合ですけど、自分の中で溜まってるいろいろバカバカしい体験とかが、ワインが醸造されるようにしてできる。だからエンソくんも、悩むことなく、あっという間にできちゃった。

 子どもの頃、僕の村はアスファルトの道路が全然なかったから、道に釘とかで絵を描いてました。じゃり道で、1日に車が2、3台通るだけ。「エンソくんのような絵が、どうして描けたのか?」とも、人からよく聞かれるんですが、僕も「さあ」って首ひねるしかないんです。ただ、絵は道路の落描きから始まって、絵ばっかり描いてる子どもだった。
 子どもが、買ってもらった物がうれしくて抱いて寝るっていうこと、ありますよね。昔、王様クレパスってあったんですけど、僕はそれを買ってもらった時が、もう、うれしくてね。1本ずつ、鼻の穴にですね、甘い匂いをかぎながら、つっこんでいく(笑)。それを布団の中でやるわけですよ。うれしくてしょうがないから。
 小学校に上がると、夏休みとか、絵日記ってあるじゃないですか。あれが、もう、おもしろくてね。ところがなぜか、学校では絵日記は2年生ぐらいでやめるんですよ。「絵は幼稚なもの」という考えがあったんじゃないかと思うけど、3年生になると、日記は文章だけになったんです。それが、僕はすごく疑問だったんです。絵があった方がおもしろいじゃないですか。こんな楽しいことを何でやめなきゃならないのか? だから僕は自己流で、絵は全然やめなかった。
 高校に行ってさらに、爆発したというか、噴出したわけです。17、8歳というのは、どなたもそうだと思うんですけど、感覚が一番冴えわたる時期だと思うんですよ。新しいアイデアというのが湧いてくる年代だと思う。一番とんがって、ピリピリしてる時代でもある。僕の場合、幸せだったのは、家は貧乏だったけど、絵を描くことに関しては、親たちも何もいわなかった。本当に好きにさせてもらったんです。
 今、その頃の感覚を取り戻そうと思ってもできないけど、自分でもすごかったなって、思うんですね。今描いてるような絵が、最初に芽吹いたのもその頃。いまだに18歳くらいの時の感覚を、実現しようとしてる、肉付けしてるというか、そういうことを感じますね。

 絵ばっか描いてたから、高校を赤点だらけで卒業して、東京に出て赤坂の天ぷら屋さんに住み込みで働いたんです。それからも絵は描き続けていました。その天ぷら屋さんに、僕のおじが、堀内誠一さんを連れてきてくれました。「変わった絵を描く甥がいるから、見てくれないか」って。僕が描きためていた絵を天ぷら屋のカウンターで見てくれて、堀内さん、絵をかついで帰っちゃったんです。それから電話がかかってきて、その頃、堀内さんは、「アンアン」の創刊号を作ってたんですが、そこに僕の絵をのせてくれるっていうんですよ。天にも昇るような気持ち、大感激でした。
 堀内さんは、「こいつはひょっとして、絵本に質があうんじゃないか」と、思ったんじゃないですかね。それから、僕を福音館書店に連れていってくれたんです。
 堀内さんが、僕を発見してくれたんですね。出会いって、ふしぎでしょうがない。堀内さんに会わなかったら、今何してるかわからない。きっと、絵は描き続けていると思うけど。僕にとって、必要不可欠なものだから。
 (「こどものとも年中向き」2001年6月号折込付録より一部省略して再録)

スズキ コージ
1948年静岡県に生まれる。画集に『Witchen』『ゼレファンタンケルダンス』(以上、架空社)、絵本に『やまのディスコ』『大千世界の生き物たち』『サルビルサ』(以上、架空社)、『エノカッパくん』(教育画劇)、『つえつきばあさん』『おばけドライブ』(以上、ビリケン出版)、『エンソくんきしゃにのる』『ガラスめだまときんのつののヤギ』『きゅうりさんあぶないよ』『かぞえうたのほん』(以上、福音館書店)などがある。その他ライブペインティング、壁画制作、CDジャケット、舞台美術、装丁なども手がけ、幅広い活動をしている。最近は、子どもたちと一緒にTシャツやバス、お面、旗を作ったり、カヌーなどにペインティングするワークショップなどを精力的に行っている。東京在住。

2月 10, 2006 1986年, エッセイ | | コメント (2) | トラックバック (1)

2006/02/03

<作家インタビュー>『めっきらもっきら どおんどん』が生まれた日  降矢奈々

 美大に入ろうと受験して、2回失敗して、落ちこんでいる頃だったんです。どうしたらいいかわからなくて、先に進めないで鬱々としていた時に、「ある程度作品を作って持ってくるつもりがあるのなら、こどものともの編集者を紹介するよ」といってくれる人がいまして、それがきっかけで、作品を描いて売り込むことを始めたんです。
 絵と、ちょっとお話を作って絵本のようにして編集の方に見ていただきました。アドバイスをいただいて描きなおしたりしたんですけど、それでもなかなか仕事はこなくて、1年たった夏に、「おもしろいテキストがあるんですが」と、この『めっきらもっきら どおんどん』のお話をいただいたんです。そうしたら、それはとびつきますよね。すごくやりたくて待ってたんだから。それが長谷川摂子さんの文章だったんです。

 文章の雰囲気などから「日本のお話だ」と感じて、出てくるのも日本のおばけにしようと、図書館にいっておばけの絵や日本画をいろいろ見ました。風神雷神とか獅子の絵とか。それで獅子の髪を見て、“しっかかもっかか”の髪はこういうふうにやろうとか、“もんもんびゃっこ”の服は浮世絵の中の船頭さんが着ていたのを参考にさせてもらったりしました。
 そうしてラフスケッチとおばけのイメージを作って、初めて長谷川さんにお会いしたんです。その時、印象的なことがありました。“もんもんびゃっこ”は、最初、“ぎっことんこ”という名前で、「手足が長くてなわとびをする」と書いてあった。私は狐が好きなものですから、狐のお面をして頬被りをしたおばけを描いていったんです。そうしたら編集者にも長谷川さんにも、「お面を被っていると、子どもは、どんな顔をしているんだろう? と想像して怖くなっちゃう。答えが本で最後まで出なくて、不安になる。思い切ってお面じゃなくて狐のおばけにしたら」といわれました。
 それで狐のおばけを描いたら、長谷川さんが「狐、おもしろいわ。これだったら、おばけの名前、変えましょう」と、“ぎっことんこ”を“もんもんびゃっこ”にしてくれたんです。まさか、作家さんがそんなふうに新人の画家の絵を見て自分の文章を変えるなんて思わなかった。絵本は一緒に作っていく、新人だろうが何だろうが関係ない、それで作品がおもしろくなるんだったら、自分の文章も変えてしまう。長谷川さんのそういう姿勢と、そうやって絵本を作っていくという初めての体験に、感動しましたね。

 この絵本で苦労したのは、主人公の男の子を描くことです。今は自分に娘がいるようになって、子どもを描くことに対する緊張感とか怖れがずいぶんやわらいだんですけど、やっぱりこの時は、子どもを描くことのリアリティーがなくて。子どもを描くことの怖れが、この『めっきらもっきら どおんどん』の本の中にはあるんです。それはこの後も結構ずーっと続くんですけど(笑)。
 漫画のようなパターン化した子どもを描くことはできると思うんですよ、ある意味で記号になってるから。そうじゃない、子どものやわらかさとか表情とかしぐさとか、動きによる体の表情を描くというのは本当に難しいと思います。あんまりしっかり表情を描きすぎても、気持ち悪くなるし。幸いなことに、私には今、子どもがいて、そうすると否が応でも毎日毎日子どもと顔を合わせなくちゃならない。さわる時間も他人とは比べものにならないくらい増えてくる。その時間のおかげで、子どもを描いていて「あらっ」て、ずいぶん息をぬいて描ける感じになった。今でももちろん、自由自在にはならないですけど、ありがたいなと思います。
 (「こどものとも年中向き」2003年1月号折込付録より一部省略して再録)

降矢奈々(ふりや なな)
1961年、東京生まれ。スロヴァキア共和国ブラチスラヴァ美術大学にて石版画を学ぶ。月刊「母の友」表紙(福音館書店発行1998年度分12枚連作/P・ウフナール氏と共作)にて、1999年ベオグラード・イラストビエンナーレ「黄金のペン賞」受賞。絵本の絵の仕事に、『めっきらもっきら どおんどん』『きょだいな きょだいな』『おっきょちゃんとかっぱ』『あいうえおうた』『まゆとおに』(以上、福音館書店)、「おれたち、ともだち!」シリーズ(偕成社)など。自作の絵本に、『ちょろりんのすてきなセーター』、童話のさし絵に『やまんば山のモッコたち』(以上、福音館書店)などがある。スロヴァキア共和国ペジノック市在住。

2月 3, 2006 1985年, エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/01/27

あのころのこと  福井恵樹

 「こどものとも」が創刊されてから、この3月号で600号になり、あらためてこれまでの全リストを見て、一度も欠けることなく毎月1冊の絵本が出つづけているのは、当たり前といえばそうだけれど、実際にそのなかで本作りをしてきたものとしては、ときに奇跡的なことにすら思えます。本作りの途中で、病気になる方がいらっしゃいました。それどころか、お亡くなりになった方さえいらっしゃいました。ですから、「奇跡的」という言葉を使っても、あながち誇張した言い方ではないのです。
 わたしが「こどものとも」にたずさわっていたのは、'70年代のなかばから'80年代のなかば過ぎまでの10年間ほどです。
 毎月、変わらず絵本を出しつづけていることでは、いまもあのころとなんら変わりはありません。でも、ずいぶん変わったなと思うことも多々あります。
 あのころ、多くの著者の方々が、ふらりとよく編集部にすがたを見せていらっしゃいました。

 たとえば、わたしたちに子どもの本のあるべきすがたを示し、向かう先に明かりを点してくださっていた瀬田貞二さんを思い出します。いま、わたしたちの会社は「おばあちゃんの原宿」ともいわれる巣鴨にありますが、そのころ、神保町のほど近いところにありました。肩から布製の頭陀袋を下げ、風呂敷を手にした瀬田さんが、いつものような、いくぶんはにかんだような笑顔で編集部を訪ねては、「今日は、神保町の古本屋でこんな本を手に入れてきましたよ」と言って、うれしそうに、頭陀袋から、また風呂敷から何冊もの本を取り出されました。そして、1冊ごとに、ページを繰りながら、「いいでしょう!」とうれしそうにその本について語られるのです。まだまだ編集部の人数も少なくて、いつのまにか、多くのものが瀬田さんを囲んで、瀬田さんの語りに耳を傾けていました。瀬田さんの語りは、本の魅力を伝えて余すところがありませんでしたから、だれもがその本を好きにならずにはいられませんでした。ときには、夕方になって、そのままお酒の席に場を移して、さらにそれがつづくことさえありました。

 堀内誠一さんは、もっとも頻繁に編集部を訪ねてくださった著者のおひとりでした。堀内さんは1974年から、パリ郊外に居を移されていました。ですから、そんなことはありえないのに、わたしには、ほとんど毎日堀内さんは編集部に来てくださっていたと思えてならないのです。それは、ひとつには、頻繁に堀内さんからの絵入りのエアログラムが編集部あてに届いたせいかもしれません。まだ、それほど海外に出ることがふつうではなかったころでしたから、エアログラムに描かれる絵入りの文面は、それだけでもわたしたちを刺激し、次にくるエアログラムを心待ちにしていました。また、年に何回か帰国なさると必ず編集部に足を運んでくださいました。エアログラムの堀内さんは雄弁ですが、実際にお会いしたときには、むしろ無口で、ときに取り付く島もない感じを受けることすらありました。でも、堀内さんがぼそぼそとつぶやく言葉のどれひとつもが新鮮で、わたしたちは聞き逃すまいと耳を傾けていました。堀内さんだったらどう思うだろうと、パリの堀内さんにあてて読み終わった本を送ったりしました。そして、同じような評価を述べられたエアロメールがくると、自分の評価が正当化されたようにうれしかったものです。

 それにしても、あのころ、どうしていろんな著者の方々があれほど頻繁に編集部を訪ねてきてくださったのだろう? 
 いまでは、原画は原寸で描く人のほうが多いのですが、あのころは、少し大きめに描いて縮小することも少なくありませんでした。縮小、拡大が自在にできる便利なコピー器などない時代です。最先端の道具といえば、計算尺ぐらいでした。多くの編集者が三角定規2本を使い、平行移動しながら、当たりをつけて縮小の目安にしたものです。
 一方、電話があってもファックスを持っている著者は少なかった、ましてやパソコンなどまだまだ普及していませんでした。原稿といえば、何度も書き直しのあとの残る原稿用紙に書かれたものでした。メールでやりとりするなどできもしなかった。
 編集者が著者のお宅に出かけたり、著者が会社まで原稿を持参してくださったり、編集者と著者との関係はうんと密だったように思うのです。

福井恵樹(ふくい しげき)
1943年、佐賀県唐津市に生まれた。慶応義塾大学文学部英文科を卒業後、冨山房を経て、1969年福音館書店入社。1975年より「こどものとも」の編集に携わり、1983年から85年まで編集長を務める。月刊「たくさんのふしぎ」編集部を経て2006年退職。翻訳に中南米の昔話『ふしぎなサンダル』(ほるぷ出版)、絵本『ぼくのぼうし』(ブックグローブ社)などがある。神奈川県在住。

1月 27, 2006 1984年, エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/01/20

昔話絵本の展開(2)       時田史郎

 さて1982年度の昔話の2作目、『ふくろにいれられたおとこのこ』は、フランス民話の絵本化です。山口智子(再話)さんと、堀内誠一(画)による作品ですが、このお二人によるフランス民話の絵本は、1977年の『きこりとおおかみ』に続いて2作目です。その『きこりとおおかみ』を制作中にくださった手紙のなかで、堀内さんは次のように語っています。
 「フランスの民話は形式は乱れているかもしれませんが、あまり民話民話した形式にはまりすぎていないので、かえって自然で親しみやすいと思います。妙に深い意味やナゾが無く、それでいて人生の知恵みたいなものはちゃんとあり、神秘的な魅力よりは常識がかっていますが、明日を想いわずらいたくない庶民の望みが反映していて健康です。来年中にもう1冊ほど『こどものとも』でフランス民話をやらせてください」
 そして、フランス各地の民話を5、6冊揃えて、「フランス民話絵本集」のような形でまとまるようにしたいと希望を述べ、そのため絵についても「各地方の全く性格の違う民話を扱う際にも共通できるようなものにしたいと考えています。様式的すぎず、ナイーブなものにしたいと思っています」と書かれています。
 残念ながら第1作目から数えて5年目の『ふくろにいれられたおとこのこ』のあとは続きませんでしたが、この2冊の「フランス民話絵本」の絵には、堀内さんのフランス民話にたいする強い愛着とそれを日本の子どもたちに楽しんでもらいたいという思いがあふれているように思います。

 1982年度「こどものとも」の3作目の昔話絵本は、『さるとびっき』です。
この昔話は、「猿と蛙の寄合田」といわれている話ですが、登場動物が「猿と雉」になったり、「兎」になったりしている類話を含めれば、それこそ日本各地で語られてきました。でも、この絵本をつくるにあたって、私は山形県の小国町に伝わる話をもとにしました。そのいちばん大きな理由は、かつて私は、この昔話を再話してくださった武田正さん(日本の昔話のすぐれた採集・研究者のひとり)につれられて、小国町に住む川崎みさをさんという昔話の有数の語り手を訪ねたことがありました。そして、川崎さんから直にこの昔話を聞かせていただいたことがあったからです。まず耳から聞いて味わったので、語りのリズムのようなものが私の記憶のかたすみに残っていました。それを大切にして編集していきたいと考えたのです。
 ところで、前回の原稿の冒頭で、そのころ昔話の絵本化がブームになりつつあったと書きましたが、同時に「昔話は口伝えに伝えられ語られてきたもの、それに絵をつけるのは、聞き手(子ども)の想像を限定してしまい、昔話を聞く楽しみを半減させてしまうので、昔話の絵本化は好ましくない。それに昔話本来の楽しみ方ではない」という意見がありました。でも、多くの昔話は絵で多少説明していかないと、今の子どもたちには伝わりにくい、小判だの囲炉裏だの蓑笠だのという言葉についてもまた然りだと思います。それはともかくとして、こうした意見を聞きながら、子どもたちの想像を限定するどころか羽ばたかせるような簡潔でいきいきとした絵による昔話絵本ができないかと考えていました。じつは、そのために最適な昔話が『さるとびっき』だと考えました。
 この昔話にそえる絵は、餅の白さと猿の顔とお尻の赤を際立たせるために色彩も抑え、動物の表情やしぐさだけを簡潔にいきいきと描かれていればそれで充分だと思いました。そこで、画家の梶山俊夫さんに編集意図を良く説明して、この昔話に絵をつけてくださるようにお願いしました。梶山さんはそれまでの画風とはずいぶん違いますが、巧みな筆遣いで過不足なく、この昔話に相応しい絵をつけてくださいました。
 なお、この『さるとびっき』の見返しに、もとの話を語ってくださった川崎さんの名前を表記しました。多くの昔話絵本のテキストは、いくつかの類話をもとに再話することが多く、もとの話の伝承者を表記することはほとんどなかったのですが、武田さんの意向もあり、伝承者に敬意を示す意味で、表記させていただきました。
 1982年度の「こどものとも」は、以上3点の昔話絵本を出版しました。
 しかし、一口に昔話絵本といっても、その世界は広く、内容も形式もまったく違います。子どもたちも、それぞれに違った物語絵本として楽しんでくれたと考えています。

時田史郎(ときた しろう)
1943年、東京に生まれた。早稲田大学卒業後、福音館書店に勤務。1975年より1983年まで「こどものとも」編集長を務める。民俗学に造詣が深く、特に、昔話と、昔話の採集・再話者であった佐々木喜善の研究をしている。絵本の再話に『うらしまたろう』(福音館書店)がある。神奈川県在住。

1月 20, 2006 1983年, エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/01/13

昔話絵本の展開(1)      時田史郎

 1982年度、こどものとも編集部は3点の昔話絵本を出版しました。毎年1、2点は出版していましたが、1年に3点出版することはめずらしいことでした。もっともこの3点、昔話絵本には違いないのですが、語られてきた地域や内容もまったく異なり、バラエティーに富んだ内容を期待されている読者の気持ちを裏切りはしないという判断はありました。また、あのころ日本では昔話や民話がブームになりつつあり、ともすれば安直につくられた昔話絵本までが歓迎されていた、そんなことへの批判精神も底流にはあったかもしれません。
 3点の昔話絵本というのは、8月号のアメリカ・インディアンの民話『とうもろこしおばあさん』、その2か月後10月号のフランス民話『ふくろにいれられたおとこのこ』、続く11月号の山形の昔話『さるとびっき』です。

 まず、『とうもろこしおばあさん』を絵本化することになったきっかけからお話しします。この絵本の画家秋野亥左牟さんは、1968年2月にネパールの民話『プンクマインチャ』を「こどものとも」で発表して以来渡米して、編集部との交流がありませんでした。その秋野さんと連絡がつき、また絵本を描いてくださるようになったのは、ちょっとした幸運が重なった結果でした。
 というのは1981年の2月、私は沖縄のわらべうたをテキストにした「こどものとも」をつくろうと竹富島へ行き、その帰路、飛行機の都合で石垣島に丸1日足止めされてしまいました。さて1日どうして過ごそうかと考えていた時に、石垣島に近い小浜島に秋野さんが移住しているはずだということを思い出したのです。もちろん住所も電話番号も知りません。そこで私は小浜島の郵便局に連絡をとってみました。郵便局の答えはこうでした。「秋野さんという人はいた。出て行ったという話は聞かないので、たぶん今でも住んでいるだろう」
 そこで、私は秋野さんの住んでいた場所を聞き、さっそく小浜島ゆきの乗合い船に乗りこみ、秋野さんを訪ねたのです。ちょうどそのころ漁で生計をたてようとしていた秋野さんはその日も海に出ていて、結局会うことはできませんでしたが、東京にかえって間もなく秋野さんから手紙が届きました。その手紙には、アメリカ、カナダでの生活、とくに向こうでのアメリカ・インディアンの人たちとの交流について詳しく書かれていて、最後にアメリカ・インディアンの民話「トウモロコシの起源」を絵本にしたいと添えられていました。
 そしてすぐに届いた第2信では、「絵は描きはじめたが、しっかりとしたテキストが欲しいので、なんとか原話を探してほしい」と書かれていました。それから、あらゆる手立てをこうじてこの原話を探しました。最終的には、数十話集った原話の中から日本の子どもたちに親しめそうな話を選び、さらに慎重に秋野夫人に翻訳、再話してもらいテキストは完成の方向に1歩ずつ進んでいきました。でも、絵の方はそれからさらに1年以上もかかって完成しました。
 その間に秋野さんから届いた手紙の1通に、詩人のゲイリー・シュナイダーの「(アメリカ・インディアンの)プエブロ諸族は、……動物、植物もまた人間であり、ある種の祭式や舞踏を通じて人間の政治的集会に参加し、」「スー族は昔から彼ら(動物や植物)のことを這う人間、立つ人間、飛ぶ人間、泳ぐ人間と呼んできた」という言葉が引用され、「とうもろこしは、彼らにとってそのような自然人のひとりです」と書かれていました。昔話から安易な教訓をひきだすことは避けなければなりませんが、食べ物も含めて「もの」にあふれた環境で育つ子どもたちに、この絵本は何かを伝えることができるのではないか、そんな秋野さんの思いが伝わってくる作品となったと思います。かつて日本でも親が子どもに向かって農家の人たちの米作りの苦労を話し、お米の大切さを説いたように。

 結局その時の竹富島取材から「こどものとも」は生まれませんでしたが、犬も歩けば棒にあたるで、こんなふうに「こどものとも」は、生まれていくのです。
 (次回に続く)

時田史郎(ときた しろう)
1943年、東京に生まれた。早稲田大学卒業後、福音館書店に勤務。1975年より1983年まで「こどものとも」編集長を務める。民俗学に造詣が深く、特に、昔話と、昔話の採集・再話者であった佐々木喜善の研究をしている。絵本の再話に『うらしまたろう』(福音館書店)がある。神奈川県在住。

1月 13, 2006 1982年, エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/01/06

<作家インタビュー>『いそがしいよる』が生まれた日   さとうわきこ

 『いそがしいよる』っていう絵本は、子ども時代に屋根とか廊下から見ていた月の印象と、宮沢賢治のふるさとで見たお月様と、ふたつが重なってできてるんだと思います。
 子どものころから、よくお月見をしていました。父も月や星が好きで、おだんごやすすき、花を用意して、家族でお月見。それがすてきな記憶として残っています。
 それと25歳くらいの時に、月が山から昇るのを見たのが印象的だったことです。宮沢賢治の研究家の先生が、書簡集を作るというので、私を入れて女の子3人でくっついて岩手県内を歩いてたんです。陸中松川というところに賢治の晩年を知ってる人がいて、賢治の手紙を写させてもらいました。コピーもない時で、手書きで朝から写していました。賢治は私のひとつの憧れだったので、手紙に触れることができてよかったんですけど、夜遅くなっちゃって、終わって外に出たらまっ暗なんです。
 そこから帰る時に坂を下りながら歩いていたら、むこうの山のてっぺんが明るくなるんですよ。「何だろう何だろう」っていったらね、お月様が薄皮のようにキュッと出てくるの。みんなでアッといって。そしたらものすごいスピードで上がってくる。大きな黄色いかたまりが昇るんですよ。うれしくなっちゃってね。みんなで手をつないで童謡を歌いながら帰ってきました(笑)。
 私のほとんどの作品は、そういう昔のちょっとしたキズみたいなものがよみがえってできてるところがあります。

 この作品も、最初「母の友」の童話だったんです。水口さんという編集の人に童話を持っていくと、最初はケチョンケチョンにけなされて、「あなたらしい言葉で文章を書け」と、よくいわれました。例えば、私は中川李枝子さんの『いやいやえん』が好きだったんですけど、それを読んだ後で文章を書くと『いやいやえん』っぽくなっちゃうのよね。そういうのはもう、すぐ見抜かれちゃってね。「こんなんじゃあだめだ。あなたらしい文章が絶対あるはずだ。ぼくにはわかる」っていうの。
 賢治の本を読むと、賢治らしい言葉ってたくさんあるんですよね。「鬱金しゃっぽのカンカラカンのカアン」なんて言葉があって、何かとってもすてきな感じがしちゃう。ひとつの文章読んだだけで、賢治らしいな、と思う。そういう文章を私も持ちたい、と思ったの。それで私自身も自分の文章を探したし、水口さんも探してくれました。
 ばばばあちゃんの口調は、関東弁です。でも気持ちの中では東北弁が混ざってるんですよね(笑)、賢治が好きだから。調子は江戸弁で、パンパンと機関銃みたい。私は実生活でもそういわれます。「ケンカしてるみたいだ」と。
 
 賢治の童話は、子どもの時に父が読んでくれていました。私は体がすごく弱かったんです。結核なので長生きしない、と親はかわいそうに思ったらしいんですね。それで、けっこう童話をよんでくれました。『やまなし』という作品の、「クランボン」って、なんか泡のような軽いものの気がしていた。カニが親子で話してるなんていいな、と思いました。家の近所に小さな水の湧いてるところがたくさんあって、沢ガニもいっぱいいたんですよ。それで「あ、あそこじゃないか」って思ってね、「クランボンはわらったよ」というのを、よくそこに見にいきました。
 内容よりも、変わった言葉を覚えてる。子どもってみんなそうかもしれない。ふつうの言葉じゃなくて、唱え言葉や歌のようなものをよく覚えてます。
 父はそういう人で、一方で母はとてもたくましい人でした。私が子どものころは、たらいで洗濯してました。『せんたくかあちゃん』(「こどものとも」269号)は、今思うと私の母親像なんですね。描いてるときには気がつかないんだけど、下地になっているのは母のたくましさだなあって、最近になって思います。
 (「こどものとも年中向き」2000年12月号折込付録より一部省略して再構成)


さとう わきこ
東京生まれ。児童出版美術家連盟所属。『とりかえっこ』(ポプラ社)で第1回絵本にっぽん賞受賞。『いそがしいよる』『すいかのたね』『あめふり』をはじめとする「ばばばあちゃんのおはなし」シリーズのほか、『せんたくかあちゃん』『おつかい』『るすばん』など絵本の作品多数。また「かがくのとも傑作集」にも、ばばばあちゃんの登場する料理の絵本『よもぎだんご』『ばばばあちゃんのおもちつき』『ばばばあちゃんのやきいもたいかい』(以上、福音館書店)などがある。長野県岡谷市と八ヶ岳山麓で、「小さな絵本美術館」を主宰。

1月 6, 2006 1981年, エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (1)

2005/12/22

幼い子どもたちと私の詩    永瀬清子

 私には息子と娘が2人ずつ、計4人いますので、子どもとの生活に経験が乏しいとは言えませんが、その子どもたちの小さかったとき、私は子どものためにも生活の上でもあまりに息せき切って緊張していた上に、戦争のための大きな苦労もふりかかり、いわば無我夢中で暮らしていました。しかし今、孫は(一緒に暮らしてはいませんが)、7人いて、大きい子はもう高校生になりましたが、その子らの生まれ育っていく上で、とりかえ引きかえ私の前に人間の子どものおもしろさを展開してくれ、私の、子どもというものに対する親しみと愛は急に深まりました。
 つまりそれは彼らに接する私の方が若いときより目が開かれ理解がましてきたことでもあり、生活に落ちつきが生じたことでもありましょう。今一つ、年とるにしたがい、この世の全体が残り惜しくなって、愛着を感じる念がいっそう強くなるということも、たしかにあるように思います。(世の中の定石どおりに)

 「人間の子のおもしろさ」などと言ったら、あるいはふまじめにあたるかもしれませんが、大人の忘れている生(き)のままの姿や、人生への幼い問いかけや、自然に対する驚き、共感などが、私ども大人をハッとさせるような新鮮な発言、発想になってあらわれてくるのです。でも、緊張しすぎている場合にはついそれを受けとらずに走りすぎてしまいます。ですから私はこの年になってはじめてそれらに耳傾け、教えられ、そして書きとめたり、私も子どもと同じような気持ちで書いたりしたのが、この1冊の本になったのです。つまり私と子どもたちの合作の詩集であるとも言えます。
 編んでもらうスェーターの色を、「日に光っているすすきの色」と注文したり、あるいは地球の引力のことで兄弟げんかしたりしたのは、私には全く思いがけないみずみずしい出来事でした。大人が日常のうちにもう慣れすぎてしまっている物事を、子どもはまるで生まれたときのままの気持ちで受けとったり反発したりしているのでした。また、相手が生命のない物であっても、まるで自分と同じ仲間であるかのように思っているときもあります。かわいがっているうさぎの人形の事や、自転車に対しての感じ方がそうです。
 それらはまるで荒唐無稽でばからしいと大人は気にとめなくても、かえって相手の気持ちを思いやる大事な心の要素になっています。また空想力というものが一人の人間にとっても大きな勉強の一つで、小さいときにそれをのばすかのばさないかで、一生が変わってくるとさえ思われます。学校ではこのことをあまり重きを置かないようなのでなおさらです。
 若いお母さま方が、私の書きとめたこれらの詩を見て、おや、うちの子もこうだわ、とか、たしかにあんなこともあった、と思われたら、私はたいへんうれしく思います。
 また、いちばん心配なのは、子どもたちがどのようにこれらの詩を受けとってくれるだろうか、ということですが、自分たちの世界と同じものをここに見たり、共通の夢の幅をひろげたりして楽しんでくれることを心から願っています。つまり楽しいことがいちばん身になり心に残るのですから。
 また、私の希望をいれて堀内誠一氏が絵をおかきくださったこともたいへんうれしいことでした。たぶん私にはじめてのこの絵本は、今年一番のプレゼントになるでしょう。
 (「こどものとも」1981年1月号『ひでちゃんのにっき』折込付録より再録)

永瀬清子(ながせ きよこ)
1906年、岡山県に生まれた。愛知県立第一高等女学校卒業。そのころより同人雑誌「詩之家」「磁場」「麺麭」等の同人に順次参加。東京で深尾須磨子らと交流の後、1949年、郷里岡山に帰り、「黄薔薇」(1952年)、「女人随筆」(1969年)を主宰した。詩集に『永瀬清子詩集』、『あけがたにくる人よ』(以上、思潮社)などがある。宮沢賢治を生前から高く評価した数少ない詩人の一人。1995年逝去。

12月 22, 2005 1980年, エッセイ | | コメント (1) | トラックバック (0)

2005/12/16

<作家インタビュー>『ぽとんぽとんはなんのおと』が生まれた日    平山英三

 今から20数年前のことですが、このお話をいただいた時のことは、非常に印象深く覚えています。
 ちょうどそのころ、私は東北の沢内村というところに何年もずっと、四季を通して通い続けていたんです。そこはたいへん雪の多い村だったものですから、雪のこととか、雪国の人の暮らしを見聞きしていました。そんな時にこのお話をいただいたんですね。
 母グマと子グマの会話に登場するシーンというのは、雪国に住んでいると、春の気配を感じるころに、本当に毎日起こっている、あるいは見る、感じる、たいへんリアルなことばかりなんです。作者の神沢さんがそういうことを本当によくご存知なんだとわかって、びっくりしたのを覚えています。

 私は沢内村に通っている時に、雪の研究者の高橋喜平先生のところにいつもおじゃまして、雪のことを教えていただいていました。高橋さんは雪の先生であると同時に、クマのことについてもたいへんおくわしい方で、ツキノワグマのことも教えていただきました。ツキノワグマは冬眠中に子グマをだいたい2頭産むことが多いんだそうですね。そういう話を聞いていたものですから、この本でも、子グマが2頭というのは、すぐに発想できました。
 そのころ、もうひとり、炭焼きをしている近藤さんという人−その人はマタギ(東北地方の伝統的な狩人)なんです。7ページで木を切っている人です。−その方からも、山のことや、クマのことも教えていただいて、とても楽しんでいる時だったんです。
 村には、今はなくなったけれども、当時は茅葺きの民家があって、それをスケッチしました。茅葺きの屋根に百合が生えていて、初夏には百合の花が咲くんです。ひょっとすると木なんかも生えていて秋になると紅葉したり、すすきが穂を出したりする。春は、中に人が住んでいると屋根の方が地面よりあたたかいから、そこから緑になります。他にも、山の風景や植物をスケッチしていました。この絵本では、そういうスケッチをもとにして、描いていけばよかったのです。

 ただ、いまだにこの本を見るたびに、残念でならないんです。というのは、今、私は長野県の北部に住んでいるんですが、たいへん雪が多いので、春になると、『ぽとんぽとんはなんのおと』の世界を、本当にいつも経験していて、毎春この本のことを思い出してね、「ああ、あの場面はこういうふうにすればよかった。こっちの場面はこうすれば……」と思って、私は20何年間、心の中でこの話をまだ描き続けているんです。
 この本の絵を描いていて思ったのは、これ、春近い山のクマの親子の話ですが、これはまた、春をむかえる雪国の母と子の話でもあると思いました。冬、じーっと単調な中にいたところから、春の気配がして春が近いと思うと、気持も明るくなって、活き活きとしてきます。このお話が、雪の中の話でありながら、あたたかく感じられるのは、そういう春をむかえるときの気持が描かれているからだと、私は思います。
  (「こどものとも年中向き」2002年1月号折込付録より一部省略して再録)

平山英三(ひらやま えいぞう)
1933年愛知県生まれ。東京芸術大学美術学部卒業。絵本に『とまとときゅうりさんとたまごさん』(童心社)、『ぽとんぽとんはなんのおと』(福音館書店)、奥さんの平山和子さんとの共作に、文章を担当した『おにぎり』(福音館書店)、平山和子さんの落ち葉の絵を構成した『落ち葉』(福音館書店)、さし絵に『少年動物誌』(福音館書店)、著書に『落ち葉の美術館』(桜華書林)などがある。長野県在住。

12月 16, 2005 1979年, エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/12/09

<作家インタビュー>『はるにれ』が生まれた日    姉崎一馬

 この木を見た時、「あ、僕は長い間この木との出会いを待ってたんだ」とわかったんですね。
 僕はたくさんの人に森林のことを知ってほしくて、森林の写真を撮っていたんです。自然保護運動からスタートした発想なんですが。でも森林というのは、普通の人にはすぐにはとっつきにくいですよね。だからまず、だれでも感情移入できるような、シンプルでわかりやすい木の本を作ろうと思っていました。大きな木と、そのまわりの草花や昆虫、動物といったものも登場させたりして、その中で木が四季にどんな変化をしているか、そんな本ができればいいな、と思って絵コンテを描いたんです。でも、実際にそんな木があるか、あてがあったわけではなくて。で、「じゃあ、この木はいったいどこにあるんだ?」となった(笑)。
 ふだんから図鑑の仕事などであちこちの国立公園などに写真を撮りにいっていたので、そういう木がないかと探してたんです。それで何本か、「この木だったらひょっとしてできるかな」というのを見つけて、「これはカエデだから秋はきれいだ」とか「サクラだから春はよさそうだ」と思って撮影していたんですが、何かいまひとつ、ピンとはこなかったんですよ。

 そんなある時、北海道で悪天候にあって、十勝川の広い河川敷で、車の中に泊まっていたんです。その次の朝、とてもいい天気になったんですよ。そして上流に移動を始めた時、遠くの方に、ぼぉーっと、このはるにれの木が見えたんです。その瞬間、僕がこの木との出会いを待っていたことがわかった。
 近づいていったら、やっぱり僕が心の中に描いていたのと寸分違わない木なんです。それは、人生の中のひとつの道標に出会った、航海の船が島を見つけたような、そんな感激がありましたね。それで、それまで撮っていた他の木のことを、いっさい忘れちゃいまして。
 でも、当時は写真を始めたばかりでお金もなくて。本当は1年くらいこの木のそばにいたい。せめて月に何度かこられれば、うまく撮影できたんでしょうけど。東京でアルバイトして、お金がたまったらまた撮影にくる、ということをしてましたから、結局この木を撮るのに4年近くかかってしまったんですね。
 この河川敷は牧草地で、時々牛を放牧していたんです。だから、この本の月夜のページにも、よく見ると牛がいます(笑)。雪が降っているページがありますが、これなんかもう、全然撮れなかったんですよ。十勝って気温が低くて、雪が細かいんです。粉雪で、小麦粉まいてるんじゃないかっていうくらい、小さなつぶ。写らないんですよ。これはだめかと思いましたね。11月だったら、気象条件によっては雪のつぶが大きい日もあるんじゃないかと、そういう時に何度も通って撮りました。ただ、この木を撮影していた時間というのは、僕の人生の中では非常に幸福な時間だったと思います。
 この河川敷は、もともと原生林だったそうです。この本が出た後で、ここを最初に開拓した方からお電話をいただきました。その人が牧場として利用しようと森の木を切っていった。だけどこの木に出会った時に、本当に神々しさを感じて、「この木は切れない」と思ったそうなんです。
 (「こどものとも年中向き」2002年3月号折込付録より一部を再録)

姉崎一馬(あねざき かずま)
1948年、東京に生まれる。少年時代を、北海道の札幌市郊外で過ごし、生物の世界にひかれて写真を撮りはじめる。東京農業大学造園学科卒業後、フリー写真家。理科や社会の事典、図鑑などの仕事のかたわら、博物誌的な自然観でとらえた自然写真を撮り続けている。『はるにれ』がはじめての写真絵本。ほかに『なつのかわ』(福音館書店)、『雑木林』『ブナの森』『姉崎一馬の新自然教室』(以上、山と溪谷社)、『ふたごのき』(共著・偕成社)などがある。学生の時から続けている子どものための自然体験教室を、現在山形県の朝日連峰山麓でおこなっている。

12月 9, 2005 1978年, エッセイ | | コメント (1) | トラックバック (0)

2005/12/02

新しい物語絵本の展開(2)    時田史郎

 前回ご紹介した『はじめてのおつかい』は、「こどものとも」1976年3月号でしたが、今回ご紹介するのはその次の号、1976年4月号の『こすずめのぼうけん』です。
 この物語は、石井桃子さんが1974年5月に岩波ホールで行った講演のなかで、「イギリスの作家たちのものを読んでいると、じつによい幼児のためのお話を書くひとがあるので驚きますが、(中略)そういうお話の例として」紹介されたものです。その速記録を読んだときの小躍りしたくなるような気分をいまでも覚えています。こういう物語こそ、「こどものとも」で絵本化したいと思いました。(この講演はのちに加筆訂正されて「子どもの館」(1975年1月号、福音館書店)に掲載されました)
 この物語には幼児のためのすぐれたお話(文学)がもっている要素、発端の必然性、繰返しと繰り返されるたびに高まっていく緊張感、幸せな結末、そして、それらの要素ひとつひとつにリアリティー(絵空事でなく、実際にあったかのような、あるいは実際あってもおかしくないという真実味)があり、石井さんが講演のなかでわざわざとりあげた理由もよくわかります。

 そこでまず、石井さんに絵本化の許可をいただき、原作者の使用許可も受け、石井さんとも相談のうえで、堀内誠一さんに絵をお願いすることにしました。
 堀内さんは当時パリに住んでいらっしゃいましたが、私は「こどものとも」の編集長を引き受けたときから、幼い子どもにとってほんとうに好ましい物語絵本のあり方といったことについて、手紙でいろいろ教えていただいていました。ある手紙に「やはり、(物語絵本の)基本となるのは、テキストというか、コトバだと思います」と書かれていました。さまざまな作家の、さまざまなテキストに絵をつけて、子どもたちに歓迎される絵本を数多く創ってきた画家堀内誠一さんの心からの言葉だと思いました。
 そして、石井さんの訳されたこのテキストだったら堀内さんも気に入ってくださり、この物語にふさわしい絵を描いてくださるに違いないとの確信が、その時の私にはありました。

 しかし、「この物語にふさわしい絵」と語ることは簡単ですが、画家の実際の仕事はそう簡単なことではありません。堀内さんは、どんな絵がこの物語にふさわしいのか、幾度も幾度もスケッチをし、構想を練り上げ、時には描きあげた絵さえ廃棄して描きなおすといったことを繰りかえして、描きあげてくださいました。一例をあげれば、さきほど申しあげたようにこの物語の素晴らしさのひとつにリアリティーということがあげられますが、だからといってあまりにも写実的な絵では、物語のおもしろさが生き生きと伝わってきません。どこまで現実の「すずめ」なり、物語の舞台となっている「田園」をデフォルメするのが好ましいのか、堀内さんはそのバランスにずいぶんと苦心なさっていました。物語を解釈し、ときには解説し、ときには膨らませ、しかも全体として抑制をきかせながら、子どもの心に届く魅力的な絵本と仕立てていくことはなかなかたいへんな作業だとあらためて感じました。
 しかし、完成した『こすずめのぼうけん』を手にとって見ると、この物語には、この絵しか考えられないという思いがします。堀内さんが最初からこの表現方法を思いつかれ、一気に描きあげられたようにしか思えません。ほんとうに優れた絵本というものは、きっとそういうものだと思います。

 ところで、物語絵本では、絵の印象でその良し悪しが語られることも少なくありませんが、絵の良し悪しを決定づけるのは、なんといっても物語の質だと思います。もとになる物語が画家の制作意欲をかきたてるような質のものでなければ、適当に描かれた絵しか望めないでしょう。そういう意味でも堀内さんの「やはり、(物語絵本の)基本となるのは、テキストというか、コトバだと思います」という言葉は、物語絵本を考える時の重要なポイントだといえるでしょう。

時田史郎(ときた しろう)
1943年、東京に生まれた。早稲田大学卒業後、福音館書店に勤務。1975年より1983年まで「こどものとも」編集長を務める。民俗学に造詣が深く、特に、昔話と、昔話の採集・再話者であった佐々木喜善の研究をしている。絵本の再話に『うらしまたろう』(福音館書店)がある。神奈川県在住。

12月 2, 2005 1977年, エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/11/24

新しい物語絵本の展開(1)       時田史郎

 1972年度の回のこの欄の「『こどものとも』200号を越えて」のなかで、私の前任「こどものとも」編集長の征矢清さんは、「こどものとも」の場面数が、13場面から15場面に増えたことについて、「15場面なら15場面なりの構成がなくては絶対に緊張感を持った作品は生まれてこない」と指摘していますが、私も全く同感です。物語絵本では場面数が増えるにしたがって、よりしっかりと構成された物語が求められると思います。
 征矢さんの後任として、「こどものとも」編集長に任命された私が真っ先に考えたことも、実はこのことでした。「こどものとも」各号を企画するにあたって、まず、しっかりとした物語、テキストを手に入れなければならないということでした。
 幸いにして多くの作家の方がこの考えに共鳴してくださり、しっかりとした物語をかいてくださいました。そして画家の方もその物語にふさわしい表現となるように工夫に工夫を重ねてくださいました。
そのうちのいくつかを、ご紹介しましょう。

 まず思い出されるのは、『はじめてのおつかい』です。
 このテキストの母胎は、編集部に寄せられていた投稿作品でした。これを一読したかぎりでは、多くの投稿作品がそうであるように、作者の主人公に対する思い入れ(感情移入)が強く、悪くいえば押し付けがましく、絵本のテキストとしては不向きのように思えました。しかし、その感情移入の部分を飛ばしながら、繰返し読んでみると、過剰気味な感情表現の裏側からしっかりとした物語が浮かび上がってくるのです。しかもその物語は、ふつうのおとなたちにとっては、ありふれた子どもの日常生活のひとこまとしか見えない「はじめてのおつかい」が、子どもたちにとっては大冒険であることを見事に語っているのです。この物語は子どもたちの共感をよぶと確信できました。そこで、すぐに作者の筒井頼子さんに連絡をとり、お会いしました。そして、私たちの考えを率直に説明し、主人公に対する思いは画家の表現にゆだね、簡潔なテキストに書き直していただけないかとお願いしました。筒井さんは私たちの考え方をすぐに理解してくださり、何度も推敲して、現在刊行されているテキストにまで磨き上げてくださいました。
 絵を描いてくださった林明子さんには、すでに「かがくのとも」で2冊(『かみひこうき』1973年11月号、『しゃぼんだま』1975年4月号)の絵を担当していただいていました。その2冊の作品を通じて、子どもたちをいきいきと描く林さんの表現力については信頼していました。林さんは、この2冊の絵本を制作するにあたって、子どもたちの姿や表情をご自分の想像で描くのではなく、子どもたちが紙飛行機を作ったり飛ばしたりしている現場や、シャボン玉で遊んでいる現場に何度もでかけていってスケッチを重ね、それをベースにしながら、テキストが語る世界をより豊かにふくらませてくださいました。ですから、林さんが絵を担当してくださった2冊の「かがくのとも」は、子どもたちの真剣な表情や心から楽しんでいるときの健康なかわいらしさであふれています。
 物語絵本をお願いするのは初めてでしたが、絵本にかける林さんの思いやその制作姿勢に敬服していた私たちは、このテキストにもっとも相応しい画家として白羽の矢をたてました。幸いにして、林さんもこのテキストを気に入ってくださり、随所にユーモラスな表現を加えながら、徐々に高まっていく主人公の不安感や緊張感を、楽しく親しみやすい表現で過不足なく描いてくださいました。
 作者の筒井頼子さんとっても、画家の林明子さんにとっても、『はじめてのおつかい』は、はじめての物語絵本の制作でしたが、お二人の奇をてらわない制作態度によって、子どもの心にひびく、子どもたちの大冒険を描いた傑作が誕生しました。
 この絵本が出版されたとき、今は亡き児童文学者の瀬田貞二先生や画家の堀内誠一さんが激賞してくださったことを、昨日のことのように思いだします。そして、刊行以来、父母や先生方、何より子どもたちに愛され続けていることが、この絵本のすばらしさを物語ってくれていると思います。
(次回に続く)

時田史郎(ときた しろう)
1943年、東京に生まれた。早稲田大学卒業後、福音館書店に勤務。1975年より1983年まで「こどものとも」編集長を務める。民俗学に造詣が深く、特に、昔話と、昔話の採集・再話者であった佐々木喜善の研究をしている。絵本の再話に『うらしまたろう』(福音館書店)がある。神奈川県在住。

11月 24, 2005 1976年, エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/11/18

<作家インタビュー>『ごろごろにゃーん』が生まれた日   長新太

 猫は、ふだんから鳥とか見ていて、「空を飛んでみたいなあ」と思ってるんですよ。同志を集めて。飛行機も、彼らのイメージだから魚っぽいんですね。手が出てくるページがあるでしょ。「どういう意味だかわからない」って、よく抗議を受けるんですが、いってみれば心象風景なんです。猫は、その辺にいても、いつも恐怖にさらされているわけでしょ、人間の。だから、空を自由に飛んでいろんなものを見てみたい、という気持ちは、ふだん猫が考えていることなんですよ。(笑)
 
 猫の声と飛行機の音をかけて「ごろごろ」なんです。医者に行って、「おなかが痛い」っていうと、「どういうふうに痛いか」と聞かれるんですが、それを具体的にいうのは難しい。僕が行ってる医者は、わざと人を試そうと聞くときがあるんですね。「どう痛いのか、うまく表現してください」って。こっちも「しくしくしてて、そこにちょっとちくちくが入って、しくちく」「ちくちくまではいかないから、ちーくちーく、ぐらいかな」とか答えて。
 言葉はおもしろくて難しい。猫が歩いてくるのと、犬が歩いてくるのでもちがうはず。それを音にあらわすとき、いろいろ考えなきゃ。絵本の文章は、いつも神経を使います。『ごろごろにゃーん』は、どのページも文章が一緒だから、「手抜きだ」「いい加減だ」って怒られちゃうんだけど。(笑)

 大人はどうしても、理屈の通ったものでないと信用しない、という面が強いですね。もちろん、「ためになる絵本」もあっていいんだけど、「意味はないけれどもすごくおもしろい、ユーモアがあって子どもが本当に喜んで笑っちゃう」、そういう本も重要だと思うんです。どうしても笑いとかユーモアが軽んじられ、生真面目なものが最高、という考えがある。そうなると、大人のところでストップされてしまって、子どもの手もとに届かないんですよ、僕の絵本。
 僕は40年くらい、この仕事をしているんだけど、ずっとそういうことで悩んできたような気がします。あんまり悩んでも健康によくないけど。(笑)

 日本にも昔から「笑い」の文化があったし、僕の子どもの頃、昭和ひとけたの話だけど、「少年倶楽部」で「冒険ダン吉」や「のらくろ」が圧倒的な人気を博している一方で、「長靴三銃士」なんていう漫画があって、頭に長靴くっつけてるのが三人出てきて、絵にしてもお話にしても、前衛的でおもしろかった。僕にとってはそういうのが印象的で、今でも覚えている。どこかにそういうのが残ってて、原動力みたいになって、ずうーっと動いている、という感じがありますね。

 小さな子どもの視点はすごい。僕はそういう人たちを相手に本を描いている。僭越な気がします。言ってみれば、先生に対して自分の絵を見せているような。だから、子どものすごいところ、エッセンスを、全部自分の中に集めちゃって、そこからまた、ぐわっと出して創作しよう、という気持ちがあります。ヘンリー・ミラーの画集で『描きたいように描いて、幸せに死ね』というタイトルのがあるんですが、「ああ、それが一番いいんじゃないかなあ」って。人が何といおうと、自分で好きなものを描いて、それに子どもが共感を持ってくれたら、一番幸せ。

(「こどものとも年中向き」2000年7月号折込付録より一部を省略して再構成しました)

長 新太(ちょう しんた)
1927年、東京に生まれる。東京都立蒲田工業高校卒業。1948年東京日日新聞の連載漫画に採用され、それを機会に1955年まで東京日日新聞の嘱託となる。以後は独立して、絵本、イラストの仕事で大活躍。『新聞ができるまで』(「小学生文庫」小峰書店 1955)が最初の挿絵の仕事で、『がんばれさるのさらんくん』(「こどものとも」24号 福音館書店 1958)が絵本のデビュー作。1959年『おしゃべりなたまごやき』(「こどものとも」35号 福音館書店)で第5回文藝春秋漫画賞、1981年『キャベツくん』(文研出版)で第4回絵本にっぽん賞、1984年『ぞうのたまごのたまごやき』(福音館書店)で第33回小学館絵画賞、など受賞。他にも多数の著作がある。
(福音館書店で現在販売中の作品はこちらからご覧下さい)

11月 18, 2005 1975年, エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/11/11

「こどものとも」との出会い    はせがわせつこ

 毎月やってくる「こどものとも」にいつ出会ったのだろう。今や、無数の「こどものとも」は記憶の宇宙塵のなか、30光年の彼方の星々となってさまざまな色に明滅している。どれがいつのものやら……これは望遠鏡が必要だ、と担当の人に編年体のリストを送っていただいたら、見えた、見えた。私が自分と2歳の長男のために「こどものとも」をとり始めたのは1974年だ。『あらいぐまとねずみたち』、『クリーナおばさんとカミナリおばさん』、『しちめんちょうおばさんのこどもたち』、『ちいさなたいこ』、『くずのはやまのきつね』、『つつみがみっつ』、『おおきなひばのき』、『こうしとむくどり』と、懐かしい絵本の一等星が軒並み輝いているではないか。ここだ、と私は確信した。

 本箱の前に立って、背表紙の半壊した古そうなのをひっぱり出すと、あった、あった、4人のわが子が入れ代わりに読んでよれよれになった『あらいぐまとねずみたち』が。そっと開くと、たちまち子どもたちの幼い声が聞こえてきた。森の中のギョロ目のふくろうを指さして「ホー、ホー」と、言っていた2歳の息子の声。保育園の行き帰り、裸の柱が林立する建築中の家を見るたびに、一緒に歌ったあの歌。「とんかん とんかん とんかん かん/あかんぼたちにゃ よつゆは どくだ/やねが できたら よつゆに ぬれぬ」
 長女はこの絵本に出てくるねずみの新築の家の断面図が好きで、一人でじっと見入っていた。今でもその背中を思い出す。三つ子の魂何とやら、彼女はいまだにドール・ハウスの熱烈なファンである。

 1冊の「こどものとも」を開くと、時間の井戸の底から立ち上ってくる子どもたちの声。それは私にはどんなアルバムの写真よりも生ま生ましい。幼い子の息がふっと首にかかる気がして一瞬、背中が熱くなってしまう。たくさんの「こどものとも」に子どもたちの笑い声やため息や歌声がたたみこまれていく。絵本はそうやって成長するのだ。我が家の本棚の「こどものとも」たちはわが子だけでなく私の読み聞かせの会「おはなしくらぶ」に通ってきた、たくさんの子どもたちの声声を吸い取って豊かに育っている。「こどものとも」が来ると、まるで絵本の赤ちゃんが来たみたいだ、と思う。大きく育ってほしいと思う。そして、どうしても捨てられない「こどものとも」で我が家の本棚はいつも満員になってしまうのだ。

長谷川摂子(はせがわ せつこ)
絵本、童話作家。1944年、島根県平田市生まれ。東京外国語大学でフランス語を専攻。東京大学大学院哲学科を中退後、保育士として6年勤務。現在は「赤門こども文庫」「おはなしくらぶ」をひらいて、子どもたちと絵本や詩、わらべうたを楽しんでいる。絵本に『みず』『めっきらもっきら どおんどん』『きょだいな きょだいな』(いずれも福音館書店)、「てのひらむかしばなし」シリーズ(岩波書店)など。読み物に『人形の旅立ち』(福音館書店/第19回坪田譲治文学賞ほか受賞)、評論に『子どもたちと絵本』(福音館書店)がある。埼玉県在住。

11月 11, 2005 1974年, エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/11/04

<作家インタビュー>『やっぱりおおかみ』が生まれた日  佐々木マキ

 僕が作った初めての絵本で、絵本というものがどういうものか、ほとんど知らなかったんです。それまで僕、マンガ描いてましたんでね。絵本を描きたいという気持ちはあったんですが、他の方の絵本を見て勉強する、ということもなかった。絵本を知らなくて、絵本て何やってもいいんだ、ぐらいにしか思ってなかったですから。傾向と対策みたいなこと、例えば、お話の上で起承転結をつけるとかを勉強してたら、こんなふうにできたかどうか。
 おおかみを主人公にしようと決めた時点で、こんなふうに主人公がひとりぼっちのままという展開が、頭の中にあったんでしょうね。シルエットのおおかみが、仲間といっしょにたくさん暮らしてても、おもしろくも何ともないですから(笑)。異質な、というか場違いな感じが、シルエットにすることによって絵の上でもかなり出てると思います。

 湿ってるとかいうのが、自分でいやなんですね。もし、この絵本でも、描き手がもっとこのおおかみに感情移入してたら、それこそ、いやーな絵本になってたと思いますけれど。描いてる人が、かなりこのおおかみをつきはなしているんですね。
 僕、自分のことを本当はセンチメンタルだと思ってるんです。自分というものをそんな形で出しはじめたら、とめどなくなるような気がして。よく自己表現ていいますけど、自己表現て何かなあって思います。そんなに表現するほど、自己ってたいしたもんだろうかって。自分ではなく作品。見ていただくもの。平たくいえば見せものですよね。それに徹した方が、エンターテインメントとして上質じゃないかっていう気は、昔からしています。
 自分ていうのは、どんなに隠しても、作品に出てくるものですから。それで十分じゃないかと。
 
 子どもの時、文字が読める前から、マンガを見てました。貸本マンガというのが盛んで、各町内に貸本屋さんがあるんですね。近所の子どもどうしで、それぞれ借りてきたものを回し読みしてましたから、ものすごい効率、たいへんな読書量ですよね(笑)。
 やっぱり、手塚治虫はすごいと思ってました。それから杉浦茂。杉浦さんこそ、見せものに徹した人でしたね。ただもう、目の前の子どもをおもしろがらせたいって思いで。それが思いだけでなく、成功している。
 杉浦さんのマンガを見ると、お話なんかどうでもよくなるんですよね。しり切れとんぼみたいに終わることもあるんですけど、まあそんなことどうでもよくて。1コマ1コマが本当におもしろくて。あんなに子どもを幸せな気分にしたマンガ家ってのは、いなかったんじゃないでしょうか。
 それに比べれば、手塚さんのマンガには暗くて難しいところもあるし。やっぱり、大きなテーマ、みたいものがありますしね。……うん、杉浦さん、何もなかった(笑)
  (「こどものとも年中向き」2000年11月号折込付録より一部省略して再録)

※杉浦茂の作品は、『猿飛佐助』(ちくま文庫)、『少年西遊記』『少年児雷也』(河出文庫)、『杉浦茂マンガ館(全5巻)』(筑摩書房)などでお読みいただけます。

佐々木マキ(ささき まき)
1946年、神戸市生まれ。京都市立美術大学中退。漫画家、イラストレーター、絵本作家。絵本に『やっぱり おおかみ』『くった のんだ わらった』『おばけがぞろぞろ』『ぼくとねずみの いそげ、じどうしゃ!』『まじょのかんづめ』『そらとぶテーブル』(以上、福音館書店)、「ねむいねむいねずみ」シリーズ(PHP研究所)、『ムッシュ・ムニエルをごしょうかいします』(絵本館)など、多数がある。京都市在住。

11月 4, 2005 1973年, エッセイ | | コメント (1) | トラックバック (3)

2005/10/28

「こどものとも」200号を越えて   征矢 清

 わたしが「こどものとも」の編集を担当したのは4年とちょっとでしたが、「こどものとも」の流れのなかで大きな節目の時期であったと思います。企画から関わったのは1971年の4月号『るるのたんじょうび』(181号)から1975年4月号の『ねこのごんごん』(229号)までですが、その間に200号記念という「こどものとも」の歩みをふり返らせてくれる行事がありました。「こどものとも」が生まれて最初の10年ほどに、ほとんどの傑作が並んでしまっていて、そのあとを受け継ぐ者にとっては大変なプレッシャーを感じさせてくれるものでした。新しい時代の絵本の開拓はどうやったらできるのか、これからを生きる子どもたちの心をゆすぶる絵本とはどんなものなのだろうか。200号という記念すべきお祭りは、わたしにとってずっとあとまで重い課題を残してくれたと同時に、子どもの本の編集者として成長するためのはじめの種を植えつけてくれたように思います。

 そしてもう一つ、これは世の中の動きとも関連したことでしょうが、「こどものとも」の本の体裁が変わることになりました。それまで「こどものとも」は13場面で構成されていたのですが、205号から2場面増ページになり15場面で構成されることになったのです。用紙もいままでの上質紙からアート紙系の用紙になって、判型は変わらないものの、つやのある紙に変わって、見た目にはかなり変わることになりました。この用紙が変わったことは画家の方にとっても、絵本を楽しむ子どもたちにとっても、よかったと思います。きれいな原画が、印刷した絵本としてもそのまま生きるようになったからです。しかし、増えた2場面は大きな課題でした。13場面でたくさんの傑作が生まれていたのに、それに2場面がつけ加えられるというのはどういうことなのか。わたしの心配したとおり、はじめは13場面を15場面にするためにただつけ加えただけのような、間のびした作品になりがちでした。15場面なら15場面なりの最初からの構成がなくては絶対に緊張感を持った作品は生まれてこないということがわかって、はじめて新しい方向が見えてきたように思いました。
 いまふり返ってみると、絵本を作ることをもう少し楽しんでできたら、もっといいものを生みだせたろうにと思います。しかしそれは年とってはじめてわかること、わたしも絵本の仕事を楽しんでできるようになったのは、ずっとあとのことでした。しかし、「こどものとも」の編集にたずさわっていたあの時期は、わたしの子どもの本へのかかわりを深めてくれた最初のときだったのだろうと思います。

征矢 清(そや きよし)
1935年、長野県に生まれる。早稲田大学第二文学部露文科を卒業後、児童書の編集にたずさわるかたわら、絵本・童話の創作活動をおこなってきた。2002年、童話『ガラスのうま』(偕成社)で、新美南吉児童文学賞、野間児童文芸賞を受賞。絵本の作品に『かさもっておむかえ』『はっぱのおうち』、童話に『ゆうきのおにたいじ』(以上、福音館書店)などがある。長野県在住。

10月 28, 2005 1972年, エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/10/20

「12のつき」と「森は生きている」   内田莉莎子

(このエッセイは「こどものとも年中向き」1989年3月号の折込付録に掲載されたものの再録です)

 久しぶりに『12のつきのおくりもの』を手にした。この絵本ができてからもう18年もたっている。だが丸木俊さんの絵はいま見ても新鮮でとてもすてきだ。
 物語はいたって単純、きわめて素朴。気だてのやさしい働きものの娘が、根性のまがったまま母とそのつれ子のいじめを、12の月の精の助けで切りぬけ幸せになるというごくふつうの昔話である。しかし実に色彩にあふれ、しかもしぜんに音楽がきこえてくるような物語なのだ。ま冬の雪深い森。その奥に燃えさかるたき火。それをかこむ1月から12月の月の精は、春の美しい若者たちから冬の老人まで。そして娘の願いが聞きとどけられてま冬の森は三たび雪がとけて、春になり、夏になり、秋になり、またきびしい冬にもどる。その時どきの色どりになるすみれ、いちご、りんご。そして数々の難儀をのりこえた娘は、春がくるといちばん若い3月のような若者と結婚するのだ。まさにミュージカルにぴったりのお話である。マルシャークの不朽の名戯曲「森は生きている」は、この民話をもとに書かれたのである。

 日本での「森は生きている」の初演当時、私は働いていた幼稚園の子どもたちといっしょに見にいった。子どもたちも大人たちもそろって感動し興奮した。クリスマスに幼稚園版「森は生きている」を上演してしまったほどである。もう30数年昔のことだが、「森は生きている」はその後「俳優座」から「劇団仲間」にうけつがれ毎年上演されている。
 『12のつきのおくりもの』を読んでくれた子どもたちにぜひ「森は生きている」の舞台を見せてあげたい。林光さんの作曲した12つきのたき火の歌を聞かせたい。12の月がたき火をかこんだように、ぐるっと輪になって思いっきり元気よくたき火の歌を歌ってほしい。30数年前のあの子どもたちのように。思い出と思い出がかさなりあって、思わずそんな気持がこみあげてきた。

注記
* 『12のつきのおくりもの』は「こどものともセレクション」の1冊として2006年1月中旬に復刊されました。
* 『森は生きている』(マルシャーク作 湯浅芳子訳)は岩波書店より岩波少年文庫の1冊として刊行されています。
* 「森は生きている」の本邦初演は、劇団俳優座により1954年5月俳優座劇場でおこなわれました。(演出/青山杉作 出演/岩崎加根子、永井智雄、滝田裕介他)

内田莉莎子(うちだ りさこ)(1928−1997)
東京に生まれた。早稲田大学露文科卒業。1964年、ポーランドに留学。ロシアや東欧を中心に数々の海外児童文学・昔話・絵本を翻訳・紹介。主な訳書に『おおきなかぶ』『てぶくろ』『マーシャとくま』『しずくのぼうけん』『もぐらとじどうしゃ』『りんごのき』、『ロシアの昔話』(以上、福音館書店)など多数ある。

10月 20, 2005 1971年, エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/10/14

夫・土方久功の思い出   土方敬子

(このエッセイは「普及版こどものとも(現在の「こどものとも年中向き」)」1979年7月号の折込付録より再録しました)

 土方久功は変わった一生を送った人でした。美術学校の彫刻科を卒業したのですが、個展を1回してから29才のとき南洋パラオ島へ渡りました。原始彫刻へのあこがれもあったのですが、かねてから興味を持っていた南方の土俗研究も目的の一つでした。パラオ島から奥の、日本人のひとりもいないサテワヌ島に移り、島民とともに暮らしました。食物もみな島の人と同じ物を食べて、島の人になりきって7年過ごしました。そして言葉を覚えてから、島の長老たちからいろいろのお話を聞きました。そうして調べた資料で、日本へ帰ってから『サテワヌ島民話』や『パラオの神話伝説』、『流木』などの本をかきました。
 太平洋戦争が始まり、日本に帰ってからは、南洋でのスケッチをもとにして彫刻に取り組みました。病気をしてからは水彩を主にかきました。死ぬまで南洋を彫りつづけ、南洋をかきつづけました。

 絵本をかき始めたのは『おおきなかぬー』のさし絵をかいたのが縁で福音館からおすすめがあり『ゆかいなさんぽ』が出来上がりました。
 終戦後、弟夫婦と一緒に住んでいたときに生まれた姪の邦子がオジチャンにべったりで、絵をかいてもらったり、お話をしてもらったりしていました。そのとき自分でお話を作りながら、聞かせていたのを思い出して『ゆかいなさんぽ』をかきました。
 土方おじさんは子どもが好きでした。私たちには子どもがありませんでしたが、近所の子どもたちと仲良しでした。外に出ると子どもたちが寄ってくるので、からかいながら一緒に遊んでいました。その中の一人のやんちゃ坊やが「やんたくん」となって「母の友」に連載(1972年4月号〜12月号)した話の主人公になりました。
 
 若いときからの詩人で、死ぬまでたくさんの詩をかきつづけました。その中の一編に「蟇帖(がまちょう)」があります。この蟇もおじさんの愛する友だちで、庭の花壇の中からノソノソ歩いてくる小さい蟇大きい蟇を見て喜んでいました。心の中で蟇とお話していたのでしょう。

 今日も朝 窓の戸繰れば
 はいはい ここですよと
 蟇の子 にっこり
     ◇
 もの言はぬ蟇の子なれど
 もの言ひたげな眼(まなこ)あり
 その奥に心も見えて
     ◇
 蟇の子に言ってやりたきことあれど
 蟇の子も
 何か問ひたげな顔すれど
     ◇
 蟇の子よ私がお前を愛してる
 お前も私を愛しゐるようだ
 だがお互の間に言葉があったら
 お互の間がこんな風で続くかどうか

 家が豪徳寺に近いので鳥がたくさん飛んできました。この鳥も愛して毎日パンをちぎってはまいていました。その根気のよさと愛情に感心していました。
 

土方久功(ひじかた ひさかつ)(1900-1977)
1900年、東京に生まれた。1924年、東京美術学校彫刻科卒業。1929年に南洋パラオ島に渡り、さらに1931年にヤップ離島のサテワヌ島へ渡って、島民と生活をともにしながら、彫刻の制作と島の民俗学的な研究を行った。戦後は1951年から数回個展を開催し、毎年新樹会展に出品する。民俗学の研究家としても知られており、著書に『流木』『ミクロネシア・サテワヌ島民族誌』(以上、未来社)、「土方久功著作集」(三一書房)、詩集『青蜥蜴の夢』『土方久功遺稿詩集』(以上、草原社)、絵本に『おおきなかぬー』『ゆかいなさんぽ』『ぶたぶたくんのおかいもの』『おによりつよいおれまーい』(以上、福音館書店)などがある。

10月 14, 2005 1970年, エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (3)

2005/10/07

「こどものとも」の思い出 編集者として、作者として  荒川 薫

 私が福音館書店編集部で仕事をしていたのは1960〜64年、「こどものとも」の号数でいえば49号から101号の間です。その時期に、たくさんのすばらしい画家や著者の方々に出会い、その作品に触れることができたのは、この上なく幸せなことでした。今、その頃の一冊一冊を見ていくと、思い出も次から次と湧き出てきます。
 私は幼い頃、「コドモアサヒ」という月刊絵本に載っている初山滋先生の絵が大好きでした。その憧れの初山先生に『たなばた』(88号)を描いていただくことになった時は、まさに天にも昇る心地でした。資料をお届けしたりして何度も練馬のお宅へ伺いました。当時、他社の編集者の間では「初山先生は気難しいお方」という風評があったようですが、そんなことはまったくなく、丁稚時代の話などを茶目っ気たっぷりに、愉快そうに話してくださいました。出来上がった『たなばた』の原画の、それは美しかったこと。その感激は忘れられません。

 ちょっと変わった体験として思い出されるのは『しょうぼうじどうしゃ じぷた』(91号)です。資料のためにジープを改造した消防自動車の写真を撮りに、埼玉県の深谷からタクシーでかなり行った小さな消防署を訪ねました。写真を撮り終わり、帰る段になって、さてどうやって帰ろうか。タクシーを呼ぶという才覚もなくまごまごしていたら、消防署員が“じぷた”で深谷駅まで送ってくれました。今では考えられない鷹揚さ(?)ですね。乗っている間は意気揚々でしたが、駅で降りるときは少し恥ずかしかったです。
 退社してから私は3人の息子に恵まれ、子育てに明け暮れていましたが、その頃書いた最初の童話が「ころころだるまさん」です。自分の幼児体験と目の前の幼い息子たちの様子とが重なってできた話です。「母の友」に載って、それだけでもとても嬉しかったのに、なんと在職中『かさじぞう』(58号)『だいくとおにろく』(75号)でお世話になっていた赤羽末吉先生の絵がついて「年少版こどものとも」(1969年7月号)になりました。赤羽先生は「この話は幼年物だから」とおっしゃって、それまでの和紙に筆の絵とは違い、パステルで描いてくださいました。「このパステルはね、フランス製なんだよ」と、買ったばかりのきれいなパステルを見せてくださった赤羽先生の姿を鮮明に思い出します。

荒川 薫(あらかわ かおる)
東京都に生まれる。学習院大学国語国文学科卒業後、福音館書店に4年間勤務。家庭に入ってから、子どもに読み聞かせるお話を書きはじめ、「母の友」その他に掲載。絵本に、『ぼくおおきくなった?』(「年少版こどものとも」1984年1月号)、『てがみをだしに』(「こどものとも年中向き」1987年10月号)、『あしたてんきになあれ』(「こどものとも」1992年10月号)、『ともこのかいすいよく』(「こどものとも」1997年8月号)などがある。現在、全国各地の幼稚園・保育園などで、絵本やわらべうたについての講演を行なっている。神奈川県在住。

10月 7, 2005 1969年, エッセイ | | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/09/30

<作家インタビュー>『ぞうくんのさんぽ』が生まれた日  なかのひろたか

 ぼくが今まで作った中で、いちばん簡単に話を考えついた絵本です。ほんとうに簡単だった。松居直さん(当時の「こどものとも」編集長)にいわせると「それがいいんだ」っていうんだけどね。「発想から展開から結末までが、実に単純に流れたときはいい」と。実際にそうだね。この話を作るとき、苦労した記憶がない。
 「親亀の背中に子亀をのせて、子亀の背中に……」って早口言葉がちょうどはやったときで、友だちが口ずさんでるから、「何だそれ?」ってきいたら、「早口言葉で、今、はやってんだ」「へえー」ってんで。それをベースにして作った話なんです。
 登場する動物たちも、のっけて形のつくものがいいな、としか考えなかったんですよ。ぞうよりも小さくて、のっけてすわりのいいものっていったら、かばしかいない。で、かばの上はわにで。最後はちょっとしたものでいいんだ、こけるのは少しの重さでつぶれていいんだから。というので、かめにしたんだけど、後で考えたら、全部水の中に入る動物なんだよね。だから最後に池の中に落ちたってのは、つじつま合うわけです。

 最初の発行から30年以上がたってますが、この絵本が古く見えないってのは、何だろうなって、自分では、実に奇妙に思うんですね。これが新しく描かれた絵本だと思いこんじゃう人もいるっていうんで。
 この場合は、デフォルメがうまくいったんじゃないかな。考えてみたら、これで「かば」はないよね。口半分で胴半分なんてかば、いないもの(笑)。でも、この絵を見たら、他の動物の名前はいわない、やっぱりかばっていうでしょう。
 この絵を描いたとき、他の描き方も試したりして。初めはわにもグリーンで描いたんだけど、そうしたら、なすびの上に大福がのっかって、その上に唐辛子がのってる、そうにしか見えなくて、自分で描いてて笑っちゃった。
 絵を描くときに、イメージ・印象だけで描いちゃう人と、形を上手に描きたい人、というのがいる。ぼくは、形を描かなきゃ気がすまない人間らしいんだね。描いてる絵に対して、やれ「デッサンがくるってる」とか、自分の中でいいだすわけ。「目に見える」ことに絵の技術が追いついていかない。「あ、ここおかしい、ここも……」と直して、自分が納得したときに形になってる。そういう描き方がいやだな、と思っても、いざ描くときには同じことを繰り返しちゃう。本来、絵はイメージで描けばいい。形を描かなくてもいい。ピカソがそれを教えてくれたわけです。
 それが『ぞうくんのさんぽ』に関してだけは、イメージで描いてるんだね。「こうでなきゃ、かばじゃないよ。ぼくのかばって、こういうかばだ」というのを描いてる。この木だって、自分の頭の中にある木だもん。

 子どものころから漫画は好きで、よくまねして描いていたけど、写生をするとだめだった。写生大会が盛んな小学校だったんだけど、ぼくは下描きをして、色を塗りはじめるとすぐあきちゃう。それで木なんか登っているとね、気がついたら先生が下でえらい怒ってる。「おめえ、何やってんだ!」って。最後まで絵を描いたことはなかった。完成させられない子だったんじゃないかな。
 漫画は自分で描いて投稿したこともあったけど。どうもね、ストーリーがうまく作れない。自分が話を考えつくと、こういうこと(『ぞうくんのさんぽ』)になっちゃうんだね。ぼくの考える話ってのは、こういうことなんだ。
 筋道がきちっと通っていく、そういうことで絵本をやりたい。
「1+1=2」が、どうして正しいかといえば、誰にも否定できないから、だそうで。きちんと理屈が通っていれば、否定されない限り正しいんだ、ということ。そういう意味で『おおきなかぶ』は、本当に優れた絵本だと思う。きちんと筋道が通っている。
 そしてひとつだけ嘘をつく。『ぞうくんのさんぽ』でも、ひとつ嘘をついてる。「かばはどうやってぞうの上にのったんだ」って(笑)。
 松居さんもよくいってたけど、「話は幹で書け、枝葉で書くな」と。『ぞうくんのさんぽ』は幹だけだったのかもしれない。「1+1」みたいに否定できない論理は共有財産ですよね。ぼくらは絵本でもそういう共有財産を作ろうとしている。どこの国の子が見たって、「おもしろいな」というものを作ろうと。なかなか作れないけれど(笑)。
(「こどものとも年中向き」2000年9月号折込付録より一部省略して再録)

なかのひろたか
1942年、青森県に生まれる。桑沢デザイン研究所卒業。デザイン会社勤務を経て、絵本の創作に取り組む。絵本に『ぞうくんのさんぽ』、『およぐ』、『カユイカユイ』(毛利子来 文)、『みずたまり』(「かがくのとも」2002年6月号)、『ぞうくんのあめふりさんぽ』(「こどものとも」2004年4月号)、童話に『ぼくのぼうけん』(以上、福音館書店)など多数ある。東京都在住。

9月 30, 2005 1968年, エッセイ | | コメント (1) | トラックバック (3)

2005/09/16

『たろうのともだち』について——お説教にはしたくない  村山桂子

(「年少版こどものとも」1968年8月号折込付録より再録)

 この絵本は、1962年に「こどものとも」の1月号として、さらに1967年にはあらためて4月号として発行されたものです。今回、三たび発行されることとなり(「年少版こどものとも」1968年8月号)、作者である私としてはこんな、うれしいことはありません。
 けれど、この『たろうのともだち』が、このようにみなさんに喜んでいただけるのは、絵をかいてくださった堀内先生のおかげだと、私はあらためて、いま、堀内先生に感謝しています。「母の友」の5月号で、福音館の松居さんが、
——絵本の絵は、物語の世界を、子どもの中につくりだすためにあるのです。
と、いっておいでですが、この絵本の場合もまさしく、そのとおりで、私のお話を、ほんとうにみごとに描いてくださいました。
 私、ならびにたろうと、その友だちは、堀内先生に出会ったことを、心から幸福であったと思っています。いまや、堀内先生の“たろう”以外に、私は別な“たろう”を考えることができなくなってしまいました。

 さて、次にはこの絵本の内容についてですが、もし、少しでもいいところがあるとすれば、これは私が、多少子どもを知っていて書いたからかもしれません。
 というのは、私はそのころ幼稚園の先生をしていたのです。そして、私のクラスの30人の子どものために、書きたくてこのお話を書きました。
 幼児、ことに年少児は自己中心的で、自我の主張が強く、なかなか他人(友だち)を認めようとしません。したがって、幼児の世界は争いが絶えません。いわゆるけんかです。
 むろん、けんかはそれなりに、子どもの成長の上に大いに役立つのですが、やはり終局的には、個人を主張するとともに、友だちも認め、リーダーにも従うものになれることが、理想です。そこで、園の先生方は、こうしたことを子どもたちに理解させようと、努力します。
 でも、これを子どもたちにもわかるようにいえば、結局は、
「けんかしたり、いばったりしないで、みんな、仲よくしましょう」
と、いうことになってしまいますが、明けても暮れても、「けんかしないで、いばったりしないで……」を、繰り返すだけではつまりません。つまらないというより、こうしたお説教じみたことばは、繰り返せば繰り返すほど、効果がなくなってしまうのです。そこで、先生は時にふれ、折にふれ、いろいろな方法で子どもたちに理解させ、それを実行させようと工夫します。
 この『たろうのともだち』も、実はそうした方法のひとつとして考え出した物語だったのです。けれど、このようなねらいを持って物語を作ることは、とてもむずかしいことです。せっかく、楽しいお話にして、子どもたちにわかってもらおうと思っても、とかく教訓的でくすりくさいものになってしまうからです。それではお話にした意味がありません。このテーマを子どもが知らず知らずのうちに、楽しく、すんなりとからだで受けとめてくれるような、リズムのあるお話、そういうものにしたつもりなのですが……。
 さて、実際にはどれほどの効果がありますことか。それはこの絵本を見た子どもたちが決めてくれることでしょう。

村山桂子(むらやま けいこ)
1930年、静岡県に生まれた。文化学院卒業後、お茶の水女子大学幼稚園教員養成課程修了。1965年まで幼稚園に勤務。1955年、第二回全国児童文化教育研究大会童話コンクールに入選。絵本に『たろうのばけつ』『たろうのともだち』『たろうのおでかけ』『こぶたのまーち』『たろうのひっこし』『おかえし』(以上、福音館書店)、『はねーるのいたずら』(フレーベル館)、『おおきなテーブルおゆずりします』(教育画劇)、童話に『もりのおいしゃさん』『コンテのクリスマス』(以上、あかね書房)などがある。東京在住。

9月 16, 2005 1967年, エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/09/09

<作家インタビュー>『だるまちゃんとてんぐちゃん』が生まれた日  加古里子

 昭和24年頃から、僕は、会社に勤めてもらっていた給料のほとんど半分を使って、外国の子ども向けの雑誌をとっていたんです。そういう雑誌には、戦争の間、作品を発表できなかった作家たちの、書きためてあったものが、うわぁーっと載っていて、みずみずしい作品がたくさんありました。
 そんな中に『マトリョーシカちゃん』のお話もあったんですね。それを見てびっくりしました。子どもを出さずに子どもの本になっていて、おもちゃでありながら、出てくるキャラクターそれぞれに性格があって、ストーリーになっている。うまい。うまいというより小憎らしい(笑)。
 それで僕は、自分の国のおもちゃでも、おもしろいものを作ろうとして、いろいろ考えたんです。で、ぱっと目立つのがいいなあと思って、だるまにしました。赤いですしね。
 相方も、かっぱにしようか、きつねにしようか、と考えたあげく、てんぐにしました。ストーリーは、最初のうちわと最後の鼻は、すぐに浮かんだんですが、その途中ができなくて、七転八倒しました。ただ「ほしい、ほしい」っていうおねだりの本だと、編集部に怒られてしまうし(笑)。それで、だるまちゃんが自分で解決するために、お父さんには悪いけど、お父さんはとんちんかんで空振りに終わってばかり、ということになりました。

 僕自身の父は、子煩悩でありすぎたんですね。子どもの僕の願いとは、ちがうことばかりするんです。僕は小学生の時、模型飛行機が大好きだったんですが、そうすると、父は値段の高い三角胴の飛行機を買ってくれるんです。安いのは、角材の一本胴なんですが、そっちの方がよく飛ぶんですね。買ってもらった三角胴は、案の定飛ばない(笑)。
 そんなわけで、父には欲しい物を気取られないようにしてました。縁日の夜店でも、おもちゃをのぞきこんでいると「買ってやろうか」って言われてしまうのでね、欲しい物を横目でちらちら見て形を覚えては、まねして作っていました。失敗して手を切ったりしたことも、いい経験になりました。

 家族で北陸から東京に出てきて、長屋住まいをしていたんですが、そこの長屋のあんちゃんを、今でもよく思い出すんです。6歳ほど上の人だったんですが、よく手品を見せてくれて。紙をちょんちょんとやって広げてみると、「ほら、なくなっちゃった」とかね。とてもうまい。特別な道具なんか使わなくて、そこらへんの紙とか石とかでね。
 あんちゃんがまた、絵が上手で。武者修業のおさむらいのひとコマ漫画だったりするんですが、どこかまがぬけてて、刀がめったやたら長かったり、短筒を撃ってるんだけど玉がポトンと落ちてたり。いろんなところにユーモアがありました。そのあんちゃんが、僕に絵を教えてくれた最初の先生なんです。それで絵が好きになったんですが、父には怒られるんですね。絵描きになっても、とても生活できない、と。見つかると怒られるので、隠れて描いていました。長屋を出て、家で風呂に入るようになっていたので、風呂を焚きながら、焚き付けの雑誌や新聞にこちょこちょ描いては燃やす。証拠隠滅ですよ。(笑)

 学生の頃から、川崎で紙芝居を見せていました。「これをおもしろがらない子どもなんていない」と張り切って見せにいっても、目の前で子どもたちが、どっかいっちゃうんです。当時の川崎では、ザリガニ釣ったり、トンボをとったり、おもしろいことがたくさんありましたから。ザリガニよりもトンボよりもワクワクするもの、子どもたちにピタッとするものを作ろうと、懸命になりました。「子どもとぐらいは遊べるだろう」と、たかをくくっていたんですが、「相手はすごいぞ」と思い直しました。ぼくもてんぐになっていたんですね(笑)。

(「こどものとも年中向き」2000年6月号折込み付録掲載「絵本誕生の秘密 作家訪問インタビュー」より一部を抜粋し再録)

加古里子(かこ さとし)
1926年(大正15年)、福井県武生市に生まれる。東京大学工学部卒業後、民間企業の研究所に勤務しながら、セツルメント活動に従事。子供会で紙芝居、幻灯などの作品を作る。1959年『だむのおじさんたち』(「こどものとも」34号)を作り、絵本作家としての道に進む。1973年に勤務先を退社。作家活動に専念してから、横浜国立大学などいくつかの大学で講師をつとめる。「だるまちゃん」のシリーズのほか、『かわ』『ゆきのひ』『とこちゃんはどこ』『はははのはなし』(以上福音館書店)、『かこさとし かがくの本(全10巻)』(童心社)など、作品数は約500点になる。神奈川県在住。

9月 9, 2005 1966年, エッセイ | | コメント (1) | トラックバック (0)

2005/09/02

<作家インタビュー>『ぐるんぱのようちえん』が生まれた日  西内ミナミ

 とてつもなくおもしろくて、破格なお話を書きたいな、と思ったら、この象のお話になったんです。
 そのころ、私は8ヵ月になる大きなおなかをかかえながら、ある広告会社でコピーライターをしていました。当時は「女は結婚したら仕事をやめる。子どもができたらなおさらやめる」という時代でした。それでも何とかがんばって仕事を続けたくて業界雑誌を見ていたら、“コピーライター募集”という広告が載っていたんです。それがなんと「家から5分のところに会社があるじゃない!」というので、それまでやってた仕事をスクラップにペタペタ貼って、アド・センターという会社を訪ねたんです。そこでは堀内誠一さんがアートディレクターをなさっていて、だまーって私の作品見て、「明日から来て、コピー書けば」と。採用されたのです。

 次の日からアド・センターの机にむかって、デパートの広告を書いていたんです。そうするとね、原稿用紙が日ごとに遠くなるんです。おなかが出てくるから(笑)。「来週、予定日ですから、誰かかわりの人頼んでください」といって、休みにした翌日にちゃんと産まれたんです。
 その前後ですね、堀内さんが「『こどものとも』からまた絵本描いてって言われてるんだけども、何かお話書いてみたら」と、いきなり言うんですね。そのきっかけが、私が「大学では児童文学をやってました」と言っただけ、なんですよ。私の作品を読んだわけでもなく(笑)。その時堀内さんがつけ加えて言ったのが「このごろは、作だれだれ・絵だれだれっていう絵本が、はやってるみたいだから」と。堀内さんて、こういう言い方なさるのね。
 私は、絵本なんて全く知らなかったんですけど、象の中でもさらに大きい象のお話を書こうと思って、一気に一晩で書いてしまったんです。「ぐるんぱ」という名前も、「どうしてぐるんぱっていう名前にしたんですか?」とよく聞かれるんですが、「ぐるんぱ」と、そのとき出てきた、という以外にないんですね。コピーライターって、いろいろとネーミングする仕事もあるから。

 まだお母さんになりたて、ぐらいのときだったから、子どものためにとか、子どもにわかりやすくとか、そんなこと、いっさいこの本にはないんです。それでずっとあとになってこの本をふりかえると、この象のぐるんぱは転職したばかりの当時の自分なんですね。当時はとくに意識してなかったんですけど、今読み返すと、そのときの26歳の私が、悩んでいたのがわかる。その悩んでいたことが、象が職業を変えていっちゃう、ということになって。でも性格的に未来は明るく考える方ですから、「まあ、一生懸命やれば何とかなるだろう」となってお話はハッピーエンドになってしまった。
 だからたまたま、26歳の私の気持ちと、絵本の読者の3、4歳の子どもの自立したいという気持ちとが合って、そしてそれが絵のよさに支えられて読みつがれる絵本になったのだと思います。一気に絵を描き上げつつ、堀内さんには、「大きい象の中でさらに大きい象ってのは、絵本の画面の中に入らない」とも言われたんですよ。それで主人公は、ふつうの大きさの象になりました。確かに表紙のぐるんぱは画面からはみ出しているんですけど、堀内さんの絵のすごいところって、一部しか出てなくても、象の鼻だってわかるところなんですね。そしてこの表紙のぐるんぱは、とても無垢な目で、じっとこっちを見てるんです。この絵本の中でいろいろなことが起こるにも関わらず、この顔はすごく無垢。じっと、読者をみつめて、生き方を問いかけています。
 私はいまだに何年もかかって、あらためて堀内さんの絵のすごさ、いろいろなことを発見し続けています。

(「こどものとも年中向き」2002年7月号折込み付録掲載「絵本誕生の秘密 作家訪問インタビュー」より一部を抜粋し、作者による若干の改変のうえ再録。なおこのインタビュー記事の全文は、『おじいさんが かぶを うえました−−月刊絵本「こどものとも」50年の歩み』(12月刊行予定)に収録されます)

西内ミナミ(にしうち みなみ)
1938年、京都に生まれた。その後瀬戸内海、東北地方、東京で育つ。東京女子大学卒業。在学中よりサークル活動で児童文学創作を志すが、広告会社にコピーライターとして約10年勤務。堀内誠一氏のすすめにより、はじめての絵本『ぐるんぱのようちえん』を書く。このほかの絵本作品に『おもいついたらそのときに!』(こぐま社)、『しっこっこ』(偕成社)、『ゆうちゃんとめんどくさいサイ』(福音館書店)などがあり、幼年童話も多数発表。東京在住。地域で永年、子どもの読書推進運動にも関わっている。

9月 2, 2005 1965年, エッセイ | | コメント (1) | トラックバック (0)

2005/08/26

<作家インタビュー>『ふるやのもり』が生まれた日   田島征三

 僕の、初めて出版された本ですから、よく覚えています。
 この前に僕は、『しばてん』という本を作っているんです。手刷りの自費出版で。それを童話作家の今江祥智さんがたいへん気に入ってくれて、松居さん(当時の「こどものとも」編集長)のところへ連れていってくれて、見ていただいたわけです。
 松居さんは、絵を評価してくださって、「こどものとも」で1冊作ることになったんです。それが、「出してあげましょう」というのではなくてね、「私とつきあってください」という言い方をなさった。僕は田舎育ちで、そういう上品な物言いには慣れていなかったから、「つきあってる間、お金とかくれるのかなあ?」と、わからなくてね(笑)。松居さんに聞きにいったんですよ。でも、「それはだめです」ってはっきりいわれて。ただ、お金に困ってるんだったら、早く出しましょう、ということになったんです。
 当時僕は、平凡社の「月刊太陽」で、木下順二の民話に絵をつけるという仕事をしていて、それが出るたびに、松居さんのところに持っていってた。お金のことを聞きにいった時、ちょうど「ふるやのもり」が掲載された号を持っていったんです。それで松居さんが、「あ、ふるやのもりがいいですね。これでいきましょう」といってくれた。

 この作品は、ほとんどの絵をモノクロで描いて、印刷指定で色をつけているんです。一見、土俗的な絵ですよね。だけどやろうとしていることは、デザイン的に頭の中で組み立てて、絵を描いてゆく。
 描いて出る効果、というのは描いちゃえばいいわけです。でもせっかく印刷を通じて表現するんだから、描こうとしても描けないことをしたかった。それで、印刷の技術を駆使してやったんです。やりたいことをやって、満足感はありました。
 「これは、子ども向きのものではない」という書評があったりして、子どもの本の現場では排斥された部分もあるけど、印象的ではあったようで、作者に会いたい、という気持になった人がずいぶんいたみたい。当時僕は、体重が48キロしかなくて、青い顔してて、ひげも生えていなかったし、ものすごく神経質で、ピリピリしてましたね。でも、会いにくる人はみんな、この本の土俗的な印象で判断して、筋骨隆々でひげぼうぼうの山男みたいなのが描いたと思ってるんですね。でも、この本は、いろいろ神経質に考えて、デザイン的な処理をしてるんですね。構図やレイアウトの面でも、大胆かつ繊細なことをやった。とにかく新しいものを作りたい、子どもの本に革命を起こさなきゃ、という気持があったから。
 この本の原稿料は13万円。その年の収入はこれだけでした。
(「こどものとも年中向き」2002年10月号折込付録掲載「絵本誕生の秘密 作家訪問インタビュー」より一部を再録)


田島征三(たしま せいぞう)
1940年大阪に生まれる。高知で幼少期を過ごす。多摩美術大学図案科卒業。東京都日の出町で、ヤギやチャボを飼い畑を耕す生活をしながら絵画、版画、絵本などを創作する。1998年より伊豆に移住し、木の実との新しい出会いもあり、近年、木の実など自然の素材を使ったアートを本格的に展開している。絵本に『ちからたろう』(第2回ブラティスラヴァ世界絵本原画展金のりんご賞、ポプラ社)、『ふきまんぶく』(第5回講談社出版文化賞、偕成社)、『とべバッタ』(絵本にっぽん賞・小学館絵画賞、偕成社)、『ふるやのもり』『だいふくもち』『おじぞうさん』『ガオ』(以上、福音館書店)、『しばてん』『くさむら』(以上、偕成社)などがある。エッセイ集に『絵の中のぼくの村』(くもん出版)、『日の出の森をたすけて』(法蔵館)、『人生のお汁』(偕成社)、作品集『きみはナニを探してる?』(アートン)などがある。

8月 26, 2005 1964年, エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/08/12

『ぐりとぐら』を描いた頃のこと   山脇百合子

 高校三年生の秋から、「母の友」に一年間連載の絵物語の絵を描きました。それが福音館とのお付き合いのはじまりです。それは「赤組さん青組さん」(松葉重庸作1960年4月号〜1961年3月号)という題で、担当の編集者は吉田宏さんでした。「赤組さん青組さん」が終わってからも時々、童話のカットや特集記事のカットを「母の友」に描いていました。ある時吉田さんが、すっかりにこにこしながらこう言ったのです。
「いいこと教えてあげる。あのね、松居さんが大村さん(わたしの旧姓です)にそのうち絵本を描いてもらおうといってましたよ」

 私はびっくりしてしまいました。本当でしょうか。絵本を描くなんて私にできるのでしょうか。私にそんな資格はない、そんな大それたこと、夢にも思わない、というのが私の感想でした。それに私は一瞬のうちに、妹が小さい頃見ていた絵本を思いうかべて、少々怯えたんじゃないかと思います。鎧甲に身を固めた武者が華麗な馬に跨っている姿。美しい柄の着物を何枚も重ねている奥方とお付きの老女。絵本を描く人はああいうのが描けないといけないのではないだろうか、って。ですから「わー、すごい。いつ?」などというかわりに「そう!?」程度の返事だったのです。(さぞ嬉しそうな顔をしていたことでしょうけれど)でも、その吉田さんの言葉を、こうやって今も思い出すのですから、よほど思いがけない印象深いことだったのでしょう。

 そのうち1963年に姉、中川李枝子の童話「たまご」が「母の友」に載って、その時私がカットを描きました。それが半年後に絵本『ぐりとぐら』になって出版されたのです。いよいよ絵本を描かせてもらえるのだとなって、どう思ったのかなどは全然おぼえていません。武者も奥方も登場しないので、心配なことは何一つなかったのでしょうね!
 ぐりとぐらには「たまご」のとき会っていますから、初対面ではありません。私のデザインしたズボンとぼうしの二人。「たまご」のカットとさし絵は、北隆館の、あの頃の「色なし」動物図鑑の絵を参考にして描きました。でも絵本一冊分描くとなると色なし動物図鑑の正しい姿勢の野ねずみの絵一枚では、とても足りなくて困ってしまいました。それで薮内正幸さんが、上野の科学博物館の今泉吉典先生の研究室に連れて行って下さったのです。今泉先生は日本一の、もぐらとねずみの専門家なのです! 薮内さんと今泉先生のおかげで、野ねずみの問題は解決しました。

 夏休みに家の「子ども部屋」で自分の勉強机に紙をひろげて描いていました。近所の女の子が姉妹二人して庭で遊んでいたのですが、窓からのぞきこんでいました。あの二人は覚えているかしら、十才と十二才くらいでした。私は大勢の動物がカステラが焼けるのを待っているところを描いていました。気に入らなくて、あとで描きなおしたのです。見られていると描きにくかったーと思いながら。
 絵本の中で下をむいてあちこちに咲いている花にはモデルがあります。ほたるぶくろです。五年生の時はじめて見ました。芝畑のふちで。愛らしい様子に胸がいっぱいになりました。
 多い時には机を四つも並べていた「子ども部屋」だの、高井戸の井の頭線を見下ろすなだらかな芝畑のふちのほたるぶくろだの、絵が出来ると一番に、母に見せていたことだの、懐かしいことがいろいろと思い出されます。
 これがはじめての絵本『ぐりとぐら』の絵を描いた頃のことです。
      (「こどものとも」1997年11月号(500号)折込付録より再録)

山脇百合子(やまわき ゆりこ)(旧姓 大村(おおむら))
東京に生まれた。童話『いやいやえん』『かえるのエルタ』『らいおんみどりの日ようび』のさし絵、絵本『ぐりとぐら』のシリーズ、『そらいろのたね』『なぞなぞえほん』『くまさんくまさん』など、お姉さんの中川李枝子さんとのコンビの仕事が多数ある。楽しいさし絵は、日本の子どもばかりでなく、外国でも高く評価されている。東京在住。

8月 12, 2005 1963年, エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (1)

2005/08/05

「こどものとも」とわたし    松岡享子

 「こどものとも」を創刊号から欠号なくもっているというのは、わたしの自慢のひとつになるだろう。今は大事を取って倉庫に預けているが、最初の十数年分は、タイトルをいってもらえば、たぶん表紙の絵も、おはなしも思い出すことができると思う。アメリカ留学から帰って、大阪市立図書館で働いていた1963年から5年にかけて、また自宅で文庫をはじめた1967年からの数年分は、毎月、子どもといっしょに届くのをたのしみに待って、取り合うようにして読んでいたので、とくに印象が強い。号数でいえば70号から100号あたり。このころは、毎号力作揃いで、また、そのころの子どもたちは、ものすごい集中力で絵本に向かっていたので、そばで見ていても、絵本と子どもが、がっぷり四つに組んで勝負している(もちろん、どれだけたのしめるかの勝負だけれども)という感じだった。「おおきなかぶ」(74号)の「うんとこしょ どっこいしょ」に嬉々として唱和していた子どもたちの声や、「かわ」(76号)の上に長時間かがみこんでいたいくつも坊主頭が、なつかしく思い出される。

 絵本そのものもたのしみだったが、わたしにとって、それに劣らずたのしみだったのが折込みだった。あの小冊子に、当時は、石井桃子さん、瀬田貞二さん、渡辺茂男さんなどが、とても力のこもった文章を寄せていらっしゃって、絵本や、子どもの読書について、ずいぶん多くをここから学ばせてもらったものだ。まだ若かったわたしも紙面をいただいて、留学からの帰途、松居直さんのお供をして訪ね歩いたヨーロッパの図書館や、出版社のこと、大阪の図書館で初めて定期的におこなった「おはなしのじかん」の報告、また、我が家の文庫の子どもたちの様子などを書かせていただいた。なにもかもが上向きで、よい方へと動いている実感があったあのころのことを思うと、若いころの意欲と元気が戻ってくるようだ。

松岡享子(まつおか きょうこ)
神戸に生まれた。神戸女学院大学英文科、慶応義塾大学図書館学科を卒業ののち渡米。ウェスタンミシガン大学大学院で児童図書館学を学び、ボルチモア市公共図書館に勤めた。帰国後、大阪市立中央図書館小中学生室に勤務。その後、自宅で家庭文庫をひらき、子どもに接しながら、児童文学の研究、翻訳、創作に従事してきたが、1974年、石井桃子氏らとともに、財団法人東京子ども図書館を設立し、現在同館理事長。創作には、絵本『おふろだいすき』(福音館書店)、童話『なぞなぞのすきな女の子』(学習研究社)、翻訳には、絵本『しろいうさぎとくろいうさぎ』、童話「パディントン」シリーズ(以上福音館書店)など、多数の作品がある。

8月 5, 2005 1962年, エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/07/29

横長判への展開    松居 直

 「こどものとも」が6年目に入ったころ、並行して進めていたのがアメリカの絵本の翻訳出版の企画でした。最初に候補にあがったのは、『100まんびきのねこ』と『シナの五人きょうだい』の2冊です。ともに横長の判形で、それぞれの物語の変化と連続性とに合わせた動きのあるさし絵が、絵本なればこそ語れる物語の効果を完璧に表現し、物語絵本の構成の妙とそのあるべき姿を示しています。この2冊の絵本の邦訳を再編集する経験を通して、絵本における文と絵の組合せについて多くのことを学びました。その詳しいことは『絵本の力』(岩波書店刊 河合隼雄・柳田邦男との共著)をご覧ください。
 「こどものとも」の編集が壁にぶつかり、今後の物語絵本の展開には思い切った手段方法を取る必要性を感じていた矢先でもあり、アメリカの2冊の絵本の物語る力を徹底的に分析研究しました。そうして得た結論が、横長の画面に特有の“動き”の効果です。頁を開くと大きく左右に広がる画面の視覚的な動きは、物語を語るには実に効果的で、さし絵が動き、物語のそれからそれからという展開が波のうねりのようにはずみます。そうだ! 「こどものとも」も横長にしてはと考えました。

 しかし画面を横長にすると、タテ書きの文章の入れ方がむずかしくなります。そこで思い切って、「こどものとも」を横長判にし、文章も横書きにする決断をしました。絵本の文章の横書きは前例がありません。読者の反発が予想されます。しかし物語絵本のさらなる充実と発展には、これ以外に方法はありません。
 かくて1961年7月号から、「こどものとも」をB5判・横長判で本文横書き、左開きの絵本にしました。そして第一作としての効果を強く印象づけるべく、トラックが高速で長距離を走るという乗物絵本『とらっく とらっく とらっく』を編集したのです。
 子どもに絵本を読まれる大人の方々の印象は決して良くはなかったのですが、読んでもらいながらさし絵を読み取る子どもの反響からは、とても効果的であることがわかりました。この絵本づくりから、『スーホのしろいうま』や『たろうのともだち』『3びきのくま』といった作品が生まれ、さらに翌年の増頁によるより本格的な物語絵本の企画へと発展して、『おおきなかぶ』『だいくとおにろく』『かわ』『かばくん』といった傑作を作り出すことになるのです。

7月 29, 2005 1961年, エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/07/22

物語絵本の展望を開く   松居 直

 「こどものとも」が創刊以来、5年目に入った1960年の1月号は、長年にわたり早稲田大学でロシア文学の講義をされ、多くのロシア文学研究者や翻訳家を育ててこられたワルワラ・ブブノワ先生に、思い切ってロシアの物語の本格的な絵本をお願いしました。ブブノワ先生は日本の版画家たちに、大きな影響を与えられた著名な版画家です。先生はパウストフスキーの物語「あなぐまのはな」を選ばれ、訳は教え子である内田莉莎子さんがされました。ロシアの自然と風土をみごとに表現したこの絵本の芸術的なさし絵は、高く評価されたのですが、子どもたちにはややなじみにくい絵本だったようです。
 一方、幼児にとって昔話の物語体験が圧倒的な魅力があることを痛感し、幼児に最適と考えた「おだんごぱん」を瀬田貞二先生の訳に、力強い表現の井上洋介さんのさし絵で絵本にしました。文章とさし絵の表現がぴたりと合って、昔話絵本のあり方に一石を投じたとおもいます。後日、作家の丸谷才一さんが『日本語のために』(新潮社)という著書で、この瀬田貞二さんの訳を絶賛されました。

 この企画に勢いを得て、昔話絵本の決定版を作ろうと、瀬田さんに「三びきのこぶた」を訳していただきました。ディズニーの「三びきのこぶた」が納得できず、本物の「三びきのこぶた」を子どもたちに伝えたかったのです。さし絵もイギリスの絵本をよく研究するとともに、徹底的に豚をスケッチして山田三郎さんが会心の絵本に仕上げてくださいました。この作品は今もなお『三びきのこぶた』の絵本の傑作として読みつがれています。
 ついで日本の昔話「きつねのよめいり」を松谷みよ子さんの再話、瀬川康男さんのさし絵で出版しました。後に『ふしぎなたけのこ』でブラチスラバ世界絵本原画展でグランプリを受賞された瀬川さんのデビュー作です。
 これらにつづく物語絵本として、石井桃子さんの創作「いぬとにわとり」を取りあげました。幼児向けの物語は、読み語りで幼児が耳で聴いて物語の世界をしっかりと思い描き、それからそれからと物語の筋をたのしくたどれることが必須です。この作品はそのことを適確に示していて、日本に本格的な文学としての幼年童話が生まれたことを感じさせられました。
 『のろまなローラー』は、乗物を主人公にした幼児向けの物語を絵本にする手法を、山本忠敬さんがしっかりと示された記念すべき作品です。この段階でようやく物語絵本「こどものとも」に展望が開けました。

7月 22, 2005 1960年, エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/07/15

『かいたくちの みゆきちゃん』のころ   水口 健

 「この人の絵で絵本をつくりたい。絵をかいてもらうために、ミナクチ君、文章をかいてください」。福音館の編集長であった松居君がそう言い出した。昭和33年(1958年)初めのことだ。
 この人、というのは親しくしていただいていた坂本直行さん。坂本さんは北海道十勝の下野塚原野に開墾に入り農業を営んでいた。アルピニスト、エッセイスト、そして水彩で山や植物を描く。その絵が清新で美しい。
 そのころ僕は北海道から東京に移住し、ある会社に勤めていたのだが、松居君とは、じつは京都での幼馴染み。毎朝、中学校にコロコロと連れ立って通っていた。そんな関係で坂本さんの絵を見せたら、そういう話になった。
 坂本さんの生活は開墾、開拓農家という過酷ともいえる厳しいものだったが、一面、『大きな森の小さな家』に描かれているインガルス一家の生活そのもので、原野のお宅にお邪魔するたびに強く惹かれていた。そうだ、あの生活の子どもをかこう、と決めた。

 日が経ち、僕は福音館に勤めることになった。昭和33年(1958年)暮れのことだ。当時、福音館は東京都千代田区水道橋の木造民家を社屋とし、社員総勢33人。昼になると、台所でつくられた食事が出てくる。ちょっとした家族みたいな、小さな小さな会社だった。
 昭和34年(1959年)秋、「こどものとも」44号として『かいたくちの みゆきちゃん』が出来上がった。「みゆきちゃん」を前にして、松居編集長が気の毒そうに言う。
 「ミナクチ君、君は今はうちの社員。社員のかいたものには原稿料を払わないきまりになっている。だから原稿料は出ない。悪い」
 「げっ!」
 驚いたが、なるほどそういうものかもしれないと納得した。そういう時代だったのだ。
 ところで『かいたくちの みゆきちゃん』を漢字混じりでかくとこうなる。「開拓地の美雪ちゃん」。なぜわざわざこんなことをかくかというと、ある人が平仮名書きのタイトルを見て「描(か)いた口のみゆきちゃん」と読んだのだ。みゆきちゃんという女の子が絵を描く。そこに描かれた口が動き出して活躍する……。不思議なお話だと思って、タイトルを見てワクワクしてました、と。
 「はあ、ちょっと違いまして」と説明した。
 『かいたくちの みゆきちゃん』で思い出すことは他にもいろいろあるのに、こんなことどもを思い出してしまった。

水口 健(みなくち たけし)
1926年、東京生まれ。京都で育つ。帯広農業専門学校(現帯広畜産大学)卒業。北海道農業試験場勤務の後、農業、高校教員、新聞記者をへて、1958年福音館書店入社。絵本の編集などに携わった。

7月 15, 2005 1959年, エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/07/07

私自身の絵本体験  松居直

 1956年に創刊した月刊物語絵本「こどものとも」の企画を思いついたのは、私自身の幼児期の月刊絵本の体験が鍵になっています。
 満3才のころに、夜眠るときに母が添寝をして絵本を読んでくれました。昼間は家事と6人の子どもの面倒をみるのに忙しい母ですが、この時は私が母を独占できる唯一の機会です。弟は赤ん坊で兄は小学生でした。母が私の方に気持を向けて語りかけてくれるのが何よりも嬉しく、70有余年たった今も、その歓びはいきいきと心に残っています。

 そのとき母が読んでくれた絵本は、月刊の絵雑誌「コドモノクニ」でした。1922年創刊の「コドモノクニ」は、日本の子どもの本の歴史に輝く月刊絵本の傑作で、わが国の童謡の黄金時代の詩人たちの新作発表の晴の舞台でした。また「童画」といわれた絵本の新しい芸術的な挿絵の発表の場でもありました。わが国の現代の絵本の原点といってもよいと思われます。
 この美しく楽しい「コドモノクニ」の新刊が、本屋さんから毎月とどくのがどんなに待ちどおしかったか、また新刊の「コドモノクニ」を、心を躍らせて手で開いてみた歓びの印象は宝物のようです。そしてその晩から、待ちに待った新しい「コドモノクニ」への旅が、母の声にさそわれて始まります。この絵本を待つ楽しみは、貴重な幼児体験です。
 やがて幼稚園に通園するようになり、「キンダーブック」を毎月手にする歓びが増えました。観察絵本「キンダーブック」は、児童文学と童謡の粋を集めた芸術的な絵本「コドモノクニ」とは異なる、日常生活でのものを見る眼をゆたかにするノンフィクションのおもしろさを語りかけてくれます。幸いなことに私はこの2種の月刊絵本によって、いつもいつも新しい心躍る感性の体験をすることができました。しかもその体験は、母が共に居て、母の声で心と身体にしみ通るのです。この生活習慣としての絵本の歓びの体験こそが、言葉の持つ不思議な力とその働きを知らず知らずのうちに伝え、いつか私を本好きの子どもに成長させる力となりました。
 この月刊絵本のかけがえのない幼児体験に基づいて、創作童話や昔話を核とした全く新しい表現芸術としての月刊絵本を、子どもたちに贈ろうと願って創刊したのが、月刊物語絵本「こどものとも」です。その後、メディア全盛の時代となった現在、自分の「手」でページをめくって楽しむ絵本の意義と、その文化性は、子どもの成長にかけがえのないものとなっています。

松居 直(まつい ただし)
児童文学家。京都生まれ。1951年同志社大学法学部卒業後、福音館書店の創業に参画し、編集部長、社長、会長をへて、1997年より相談役、現在に至る。1956年月刊物語絵本「こどものとも」を創刊し、編集長として赤羽末吉、長新太、堀内誠一、安野光雅、加古里子、中川李枝子など、多くの絵本作家を世に出す。また、『ももたろう』(1965年サンケイ児童出版文化賞受賞)『だいくとおにろく』や、陶淵明の詩をもとにした『桃源郷ものがたり』など多数の絵本を執筆。著書は、『絵本とは何か』『絵本の森へ』(日本エディタースクール出版部)、『絵本・ことばのよろこび』『子どもの本・ことばといのち』(日本基督教団出版局)、『にほんご』(共著、福音館書店)、『絵本の力』(共著、岩波書店)など多数。

7月 7, 2005 1958年, エッセイ | | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/06/30

「こどものとも」創刊のころ  鳥越 信

 私が学校を出て岩波書店の編集部に入ったのは、1953年12月のことだった。ちょうど新しくスタートした「岩波の子どもの本」という絵本シリーズに人手が必要だったからである。以来4年間、予定されていた全34冊の刊行が終ったあとは、「岩波少年文庫」を担当していたが、1957年の12月に退社した。
 従って福音館書店が「こどものとも」を創刊した1956年4月は、私の岩波在社中のことだったから、今も鮮明に記憶している。現在は国際児童文学館に寄附してしまったため、手もとには一冊もないが、私はその創刊号から毎月購入して、きちんと目を通していた、最も熱心な読者の一人だったのである。
 その記憶の中でもやはりいちばん強烈な印象は、一冊一作主義の新しい方式を打ち出した点だった。月刊の逐次刊行物でありながら、従来の雑誌形式ではなく、単行絵本を提供するという、それまで全くなかった新鮮で大胆な実験に対して、私はうまくいくのかと心配しながらも、この冒険ともいってよい思い切ったやり方に感動を覚えたものだった。

 しかし一方、内容に関しては正直なところ私はかなり失望させられた。その理由は二つある。
 まず第一は、創刊号の「ビップとちょうちょう」が、「講談社の絵本」と同じべったり絵本だった点である。私が「岩波の子どもの本」を通して学んだ最高のカルチャー・ショックは、「外国の絵本には白い部分がある」ということで、「講談社の絵本」で育った私にとって、それは目もくらむような驚きだった。だからよけい気になったわけである。
 第二は、第2号の「セロひきのゴーシュ」、第9号の「マッチうりのしょうじょ」など、名作の再話・翻案絵本が出てきた点である。私は完訳主義を標榜していた岩波書店の影響ということでなく、自分の考えとして再話・翻案・抄訳・重訳はよくないと思っていたから、これにはがっかりさせられた。
 そうはいっても、実は「岩波のこどもの本」も、原書のレイアウトをかえたり、それにともなう原作の改変など、間違いを多々犯してきた。今ほど絵本に対する見方が成熟していなかった時代の制約ともいえるが、お互い、その後の絵本の盛況に至る必然的な道を歩んできたと考えるしかないのだろうか。
             

鳥越 信(とりごえ しん)
 1929年(昭和4年)、神戸市に生まれる。早稲田大学文学部国文学科卒業。在学中、古田足日氏、神宮輝夫氏ら早大童話会のメンバーと『「少年文学」の旗の下に!』(「少年文学宣言」)を発表。卒業後、岩波書店に勤務、石井桃子氏らと海外児童文学の紹介に努めた。また、古田、神宮、山中恒氏らと、児童文学研究誌「小さい仲間」(1954年7月創刊)を発行。一方、文庫活動や全国講演を通し、読書運動にも半世紀にわたり関わりつづけている。
 1960年〜83年、早稲田大学非常勤講師、専任講師、助教授、教授を歴任。79年、「鳥越コレクション」と呼ばれた児童文学関係資料12万余点を大阪府に寄贈、これを基に児童文学の専門研究機関として、大阪府立国際児童文学館が84年5月に開館、以降91年まで同館総括専門員として勤務。94年からは聖和大学大学院教授に就き、ゼミ生を中心に研究してきた成果を編んだ、日本初の近代絵本史『はじめて学ぶ日本の絵本史』(全3巻)(ミネルヴァ書房)で、二つの賞を受ける。今春、11年間勤めた同学を定年退職。著書・受賞多数。
(くわしいプロフィールは、鳥越信さんのホームページをご覧ください)

6月 30, 2005 1957年, エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (1)

2005/06/16

『ビップとちょうちょう』と子どもたち  福知トシ

 保育園に届く本の包みは、子どもたちと一緒に開くのが、いつの間にか“ならわし”となっていました。
 小さな膝をならべて輪をつくり包みを囲みます。新しい本の印刷の匂いがプーンとして、胸をときめかす、子どもも、おとなも共有するたのしみの一瞬です。
 『ビップとちょうちょう』が届いたときも、そうでした。一冊の本を数人で囲み、ページをめくっています。だまってみている静かないっとき、やがて、
「よんで!! よんで!!」
 声が挙ってきます。いつもは“おあとのおたのしみ”ですませてしまいますが、今でなければの気魄がこもっているので読みはじめました。魅力のある美しい絵、リズミカルな文、子どもたちは咳一つしない静かなききかた。終ると、
「もういちど」
と、立て続けに読ませます。声一つ立てない静かな中で終ると、私はだまって本を閉じました。子どもたちは庭に飛び出し遊んでいます。どこからか、
「ビップとちょうちょう」
の声がきこえてきます。

 翌日も、その次の日も読まされました。
「この本のおはなしって、どっさりね」
 こんな呟きにびっくりしました。それほど部厚いものでなく、ドラマチックでもないのに何で「どっさり」なのでしょう。
 野を駈け廻るビップとちょうに、自分を重ねて、たっぷりと浸れる想いからなのでしょうか。
「わたし、ビップとちょうちょうだいすき」
 小絵ちゃんは私の耳許に呟いていきました。
 小学校にあがって担任の先生が話しにきてくださいました。小絵ちゃんは、散歩にいくと、野の花を摘んで先生のテーブルに置いてくれるやさしい心の子ですと。
 小絵ちゃんの一年生の姿が、私にはビップの化身のようにおもえてなりません。
 五十年も前のことですのに、未だ鮮やかに小絵ちゃんの姿を想い浮かべることができます。


福知トシ(ふくち とし)
社会福祉法人井の頭保育園の創始者で、現在理事長。
1920年(大正9年)生まれ。20歳の頃から保育の仕事に携わり、23歳の時、東京都江東区の託児所で本格的に保育者として働きはじめたが、戦時下にあっても子どもたちとともに埼玉県に疎開して保育をつづけた。戦後、保育所作りに取り組み、東京都三鷹市井の頭で青空保育をはじめた。やがて、柱と屋根しかない空き工場を借りて、1951年(昭和26年)井の頭保育園を開園した。近所の人々の協力や募金活動などで、少しずつ発展した井の頭保育園は、現在も地域に根ざした保育を実践している。
*福知トシさんのプロフィールについて、くわしくはこちらのサイトをご覧ください。
 jojitown がんばる人 第三十回 福知トシ

6月 16, 2005 1956年, エッセイ | | コメント (2) | トラックバック (0)