新しい絵本をつくりつづけて…… 編集部座談会(3)
B:気持ち的には、子どもの時にすごくおもしろかった本のようなものをつくりたいなとは思うんですけれども。
D:会議の時、原稿を読むのを耳から聞く時も、子どもの時に自分がどんな感じで読んでたか、聞いてたかという子どものころの自分になりきって、けっして体とかはもどれないんですけど、心境としてもどってみて、子どもたちはどう思うのか想像しながら聞いています。
B:子どものものをつくるっていうのは、いまの大人の感覚だけじゃなくて、自分の小さい時の感覚みたいなものが常に試されるようなところがありますよね。
E:作者にいろんなタイプがありますよね。努力して小さいころのことを思い出すとか、または常に小さい人と遊びながらその感覚を失わないようにしてる人とか、その人のタイプによってちがう。たとえば子どもと遊びもしなければ、子どものことを大して好きでもないけれど、書くものは子どもにいちばん近い人もいる。そういう人の作品には、子どもにもどるんじゃなくて、自分の中に確実に子どもがいるんだっていう感じが、強くする。なんの努力もしていなくても描くものがそのままで、子どもに通じる、子どもと生理的に一体感がある、という絵描きさんもいる。絵描きさんとか作家の方にもいろいろなタイプがあるように、編集者にもタイプがあると思います。だから小さいころ絵本体験をそんなにもたなくても、ものすごく勘のいい人っていますね。
C:必ずしも、絵本をたくさん読んでいるから、良質な、子どもが楽しめる本がつくっていけるかっていうと、そうじゃないんだなって思います。
D:私が夢中で読んでいた頃の70年代の書き手は、戦争中や戦後すぐに子ども時代をすごした人が多くて、自分自身が子どもの頃にはそういう絵本体験はなかったという人たちですよね。だから、それがないといい絵本は絶対できないというものではないですよね。
E:何がおもしろい子どもの絵本の条件かということは、「こどものとも」が始まってから試行錯誤で探ってきているわけですよね。いま、いい絵本とは何かということで一般的に私たちがいっているようなことは、手探りで探り当てたものであると同時に、西欧の昔話の型とか物語の型というものが、結局は子どもたちにながく喜ばれるんだという、一種の理念のようなものとして輸入されてきたんじゃないかなと思うんですね。私たちが子どもの本をつくるとき、特に福音館の場合はかなりそのあたりを意識して、始めがあって終わりがある物語の型というのが子どもたちは好きなんだって信じてつくっているところがあります。
「こどものとも」の歴史が、それを物語っているともいえますが、その結果、日本の昔話の中でも、かなりその要素の強いものしか絵本にはならないということがあります。あいまいな結末なものはやはり絵本になりにくい。でも、まだまだたった50年の歴史の中で、子どもの本というのはこういうのがおもしろいんだっていうことを定義づけながらも、一冊一冊はちがうわけだから、おもしろい絵本とは何かということをひとつひとつ探りつつ、絵本をつくっているというのが実際の感じなんじゃないかと思います。
でも一方で、文章としての物語性の起承転結のないもの、たとえば『ごろごろにゃーん』とか『やっぱりおおかみ』とか、ああいう種類のものも子どもたちは大好きだっていうこともわかってきている。そういうものも子どもたちの好きな本として入ってきたのは、なんとか西欧の物語文学に対する信奉から自由になろうと努力した結果かなとも思えるし、それはプラスの面でもあると思います。
いつも試行錯誤の連続ですよね、一冊一冊。本を計る定規があって本ができるのではなく、お話と絵という生き物でできるので、いつも“このようになったら最高”というイメージをもちながら、作者と画家と編集者がぎりぎりまで努力して、世に送りだしている。だから出版される時は、子どもたちに喜んでほしいという思いと、ほんとうに子どもたちの心に届くのだろうかという不安とおそれが、いりまじっていますね。
E:絵本のお話、テキストというものがつくりにくい時代になってきているのかなとも思います。あと、生活感覚、たとえば『はじめてのおつかい』みたいに、子どもがひとりでおつかいにいって、“ぎゅうにゅうください”というシーンは、すでに現実にはほとんどない。子どもがひとりでいる状況が極端に少なくなっている。この子どもの気持に共感はできるが、状況はちがう。この絵本がいまも存在するっていうことは、すごくうれしいことなんだけど、いままた同じようなものをひとつひとつ生み出す力があるかっていうと……。
A:なにか生活実感みたいなもののなかで表現したいものがあって、物語が生まれてくると思うんですけど、その表現したいものの強さっていうのが、書き手の中に弱まっているのかな。頭で物語をつくっちゃって形にはなっているけど、あんまりおもしろくないっていうのが結構多いようで、なぜなんだろうと思ったりします。最近の「こどものとも」はお話が弱いとか、おもしろくないとかいわれるんですけれど、そのへんはかなり永遠の課題みたいなところがあります。でも私たちもいい出会いを求めて、こらからもどんどん出かけ、どんどんいいものを見たり読んだりしたいと思います。
E:実感をともなった一言というか、言葉に出会いたいんですけど、希薄なんですよね。だから文章と絵が二人の作家によるものがたいへん少なくなってきています。絵描きさんの作・絵というのが、時代を追うごとに圧倒的に多くなって、絵描きさんの絵のイメージの展開で、いわゆる起承転結をつけていくというほうは、非常にうまくなってると思うんですけれど、やっぱり言葉に対しては食い足りないところが、その場合は出てきます。絵本専門に書くテキスト・ライターはだれがいるかって、数えられるくらいじゃないですか、いまは。
B:岸田(衿子)さんとか、中川(李枝子)さんとか子どもの感覚で子どもがほんとうに楽しめるおもしろいテキストを書いてくださっている。中川さんの『いやいやえん』なんかを読むと、ほんとうに子どもってこんな感じだなっていう、あんまりいい子すぎないし、悪い子すぎないし、子どもをすごく描けてるなって思うんですけど、そういう子どもの姿、ほんとうの姿が書ける人に会いたいと思っても、なかなか会えないです。形としてはぶかっこうかもしれないけれど、ここはすごくおもしろい、ここはすごく印象に残る、いいなあっていう本がつくってみたいと思います。
E:絵本でもいろんなタイプのジャンルがありますからね。子どもをよく見て、よく描けるタイプの作者もいるし、そうでなくてもおもしろいものを書けちゃう人もいるし、テキストがいろいろ多岐にわたるのが絵本のおもしろさだと思います。そういう意味では「こどものとも」はいままでもそうですし、これからも、かなり広範囲にわたっての作者を、単に保育者的な目だけでなく、広い世界のおもしろさを引き出してくれる、そういう人たちを、日本だけではなく、世界的な視野をもって見つけていかなければ、おもしろいお話は、いまの日本、ましてや保育の世界だけにとどまっていては、なかなか生まれない、という感じがしますね。
6月 23, 2006 エッセイ2004年 | Permalink
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