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2006/02/17

絵本の無限の可能性−−堀内誠一インタビュー

絵本という新大陸へ
 福音館で絵本を始めた時代というのは、これから発見して開拓するいろんな大陸がある時代だった。グラフィックデザインだとか都市計画だとか。その一つに、絵本っていう大陸があって、ぼくなんかはそこへ船出してゆくオンボロ帆船の少年水夫って感じでね。でも航海長に瀬田(貞二)さんがいたっていうわけで。
 明るいっていえば明るい時代でしたよね。実際、焼け跡っていうのは明るくてね。賢治の『雪わたり』のように、ふだんは道のないところも、どこでも歩いてゆける−−ファンタスティックな雰囲気が全体に漂っていた。遠くまで見えるしね。

今の絵本の状況
 子どもの本の多様な性格を考えると、あれもやんなくちゃ、これもやんなくちゃと、すべてやってたんじゃ一生かかってもたいへんだと思ってたけど、それぞれ分担をする人が出てきたから、ずいぶん肩の荷がおりたというか、楽になりましたね。
 例えば、生活もの、幼稚園ものとかは、こういうふうに表現しなくてはいけないと思っていたのを林明子さんがちゃんとやってくれたり、何年も地道な取材と観察を重ねる仕事をする人が出てきたり。

何を見せるか
 例えば民話やファンタジーにさし絵なんかいらない、ということもいえるけど、それに挑戦したいというところもあるんですね。手を動かしているうちに、現れてきたイメージに我ながら惹かれるってことがあるから。
 『ふくろにいれられたおとこのこ』で鬼がかついでいる袋が男の子の身体の形になっているシーンなんかも、いろんなやり方があるわけでしょ? 袋の中のまっ暗な画面に、ピトシャンがいる、というようなやり方もありますね。
 このピトシャン・ピトショの話は一人称で書かれてはいないけれど、絵でそれを示してもいいんです。ただうんと小さい子っていうのは、想像力は無限にあるくせして、自分の持っている体験の数っていうのは極度に少ないわけですね。だからもしかしたら、あのシーンを視覚的に無理してまで一人称表現しても伝わらないかもしれない……と、一つの話の中で、ぼくはほんとうに三つも四つも考えちゃうんですよ。だからいつもその一部しか使っていない、これが一番いいのかなっていう危惧がある。一つの話から無限の可能性があるわけですね。

子どもの官能性
 生きてる喜ばしさっていうのは、目とかの五感や言葉とかで触るっていうことでしょう? 女の人なんかが魅力的な服装をするっていうのは、目で触ってもらってるという喜びがあるわけだから。結局人間は、触る、触られるということを、いろんな現実に形を変えてやっている。赤ちゃんは、直接に外界と関わる場合、絵本もいらないぐらいの感応性をもってるわけですよ。だけど子どもは、将来そういうんじゃない世界っていうのに旅立たなければならない。だからいろんなイメージの発散しているものの味わい方、触るということと匹敵する味わい方、というのを持って旅へ出ていかないと、ということで絵本とかがあるんじゃないですかね。

(「こどものとも」1986年7,8,9月号折込付録掲載の長谷川摂子によるインタビューより抜粋)

堀内誠一(ほりうち せいいち)
1932年、図案家を父に東京都向島に生まれる。14歳で伊勢丹の宣伝部に入社。1958年、はじめての絵本『くろうまブランキー』(福音館書店)が刊行される。以後多くの絵本を描いた。また「アンアン」や「ブルータス」など、雑誌のアートディレクターも務めた。「ポパイ」「クロワッサン」(以上マガジンハウス)「エッセ」(扶桑社)のロゴも堀内氏の手によるものである。1960年、及び1973年〜81年までパリに滞在。1987年逝去。

 「こどものとも」として発表され、現在も「こどものとも傑作集」として刊行中の絵本に『くるまはいくつ』『くろうまブランキー』『ぐるんぱのようちえん』『こすずめのぼうけん』『たろうのおでかけ』『たろうのともだち』『たろうのひっこし』『パンのかけらとちいさなあくま』『てんのくぎをうちにいったはりっこ』があります。
 さし絵の仕事には多数ありますが、意外に知られていないのは、『しずくのぼうけん』(テルリコフスカ作 ブテンコ絵 内田莉莎子訳 福音館書店)の書き文字が堀内誠一さんによるものだということです。
 絵本についての著作には、『絵本の世界 110人のイラストレーター1・2』(福音館書店)、『ぼくの絵本美術館』(マガジンハウス)などがあります。

2月 17, 2006 エッセイ1987年 |

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