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2006/01/13

昔話絵本の展開(1)      時田史郎

 1982年度、こどものとも編集部は3点の昔話絵本を出版しました。毎年1、2点は出版していましたが、1年に3点出版することはめずらしいことでした。もっともこの3点、昔話絵本には違いないのですが、語られてきた地域や内容もまったく異なり、バラエティーに富んだ内容を期待されている読者の気持ちを裏切りはしないという判断はありました。また、あのころ日本では昔話や民話がブームになりつつあり、ともすれば安直につくられた昔話絵本までが歓迎されていた、そんなことへの批判精神も底流にはあったかもしれません。
 3点の昔話絵本というのは、8月号のアメリカ・インディアンの民話『とうもろこしおばあさん』、その2か月後10月号のフランス民話『ふくろにいれられたおとこのこ』、続く11月号の山形の昔話『さるとびっき』です。

 まず、『とうもろこしおばあさん』を絵本化することになったきっかけからお話しします。この絵本の画家秋野亥左牟さんは、1968年2月にネパールの民話『プンクマインチャ』を「こどものとも」で発表して以来渡米して、編集部との交流がありませんでした。その秋野さんと連絡がつき、また絵本を描いてくださるようになったのは、ちょっとした幸運が重なった結果でした。
 というのは1981年の2月、私は沖縄のわらべうたをテキストにした「こどものとも」をつくろうと竹富島へ行き、その帰路、飛行機の都合で石垣島に丸1日足止めされてしまいました。さて1日どうして過ごそうかと考えていた時に、石垣島に近い小浜島に秋野さんが移住しているはずだということを思い出したのです。もちろん住所も電話番号も知りません。そこで私は小浜島の郵便局に連絡をとってみました。郵便局の答えはこうでした。「秋野さんという人はいた。出て行ったという話は聞かないので、たぶん今でも住んでいるだろう」
 そこで、私は秋野さんの住んでいた場所を聞き、さっそく小浜島ゆきの乗合い船に乗りこみ、秋野さんを訪ねたのです。ちょうどそのころ漁で生計をたてようとしていた秋野さんはその日も海に出ていて、結局会うことはできませんでしたが、東京にかえって間もなく秋野さんから手紙が届きました。その手紙には、アメリカ、カナダでの生活、とくに向こうでのアメリカ・インディアンの人たちとの交流について詳しく書かれていて、最後にアメリカ・インディアンの民話「トウモロコシの起源」を絵本にしたいと添えられていました。
 そしてすぐに届いた第2信では、「絵は描きはじめたが、しっかりとしたテキストが欲しいので、なんとか原話を探してほしい」と書かれていました。それから、あらゆる手立てをこうじてこの原話を探しました。最終的には、数十話集った原話の中から日本の子どもたちに親しめそうな話を選び、さらに慎重に秋野夫人に翻訳、再話してもらいテキストは完成の方向に1歩ずつ進んでいきました。でも、絵の方はそれからさらに1年以上もかかって完成しました。
 その間に秋野さんから届いた手紙の1通に、詩人のゲイリー・シュナイダーの「(アメリカ・インディアンの)プエブロ諸族は、……動物、植物もまた人間であり、ある種の祭式や舞踏を通じて人間の政治的集会に参加し、」「スー族は昔から彼ら(動物や植物)のことを這う人間、立つ人間、飛ぶ人間、泳ぐ人間と呼んできた」という言葉が引用され、「とうもろこしは、彼らにとってそのような自然人のひとりです」と書かれていました。昔話から安易な教訓をひきだすことは避けなければなりませんが、食べ物も含めて「もの」にあふれた環境で育つ子どもたちに、この絵本は何かを伝えることができるのではないか、そんな秋野さんの思いが伝わってくる作品となったと思います。かつて日本でも親が子どもに向かって農家の人たちの米作りの苦労を話し、お米の大切さを説いたように。

 結局その時の竹富島取材から「こどものとも」は生まれませんでしたが、犬も歩けば棒にあたるで、こんなふうに「こどものとも」は、生まれていくのです。
 (次回に続く)

時田史郎(ときた しろう)
1943年、東京に生まれた。早稲田大学卒業後、福音館書店に勤務。1975年より1983年まで「こどものとも」編集長を務める。民俗学に造詣が深く、特に、昔話と、昔話の採集・再話者であった佐々木喜善の研究をしている。絵本の再話に『うらしまたろう』(福音館書店)がある。神奈川県在住。

1月 13, 2006 エッセイ1982年 |

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