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2005/08/12

『ぐりとぐら』を描いた頃のこと   山脇百合子

 高校三年生の秋から、「母の友」に一年間連載の絵物語の絵を描きました。それが福音館とのお付き合いのはじまりです。それは「赤組さん青組さん」(松葉重庸作1960年4月号〜1961年3月号)という題で、担当の編集者は吉田宏さんでした。「赤組さん青組さん」が終わってからも時々、童話のカットや特集記事のカットを「母の友」に描いていました。ある時吉田さんが、すっかりにこにこしながらこう言ったのです。
「いいこと教えてあげる。あのね、松居さんが大村さん(わたしの旧姓です)にそのうち絵本を描いてもらおうといってましたよ」

 私はびっくりしてしまいました。本当でしょうか。絵本を描くなんて私にできるのでしょうか。私にそんな資格はない、そんな大それたこと、夢にも思わない、というのが私の感想でした。それに私は一瞬のうちに、妹が小さい頃見ていた絵本を思いうかべて、少々怯えたんじゃないかと思います。鎧甲に身を固めた武者が華麗な馬に跨っている姿。美しい柄の着物を何枚も重ねている奥方とお付きの老女。絵本を描く人はああいうのが描けないといけないのではないだろうか、って。ですから「わー、すごい。いつ?」などというかわりに「そう!?」程度の返事だったのです。(さぞ嬉しそうな顔をしていたことでしょうけれど)でも、その吉田さんの言葉を、こうやって今も思い出すのですから、よほど思いがけない印象深いことだったのでしょう。

 そのうち1963年に姉、中川李枝子の童話「たまご」が「母の友」に載って、その時私がカットを描きました。それが半年後に絵本『ぐりとぐら』になって出版されたのです。いよいよ絵本を描かせてもらえるのだとなって、どう思ったのかなどは全然おぼえていません。武者も奥方も登場しないので、心配なことは何一つなかったのでしょうね!
 ぐりとぐらには「たまご」のとき会っていますから、初対面ではありません。私のデザインしたズボンとぼうしの二人。「たまご」のカットとさし絵は、北隆館の、あの頃の「色なし」動物図鑑の絵を参考にして描きました。でも絵本一冊分描くとなると色なし動物図鑑の正しい姿勢の野ねずみの絵一枚では、とても足りなくて困ってしまいました。それで薮内正幸さんが、上野の科学博物館の今泉吉典先生の研究室に連れて行って下さったのです。今泉先生は日本一の、もぐらとねずみの専門家なのです! 薮内さんと今泉先生のおかげで、野ねずみの問題は解決しました。

 夏休みに家の「子ども部屋」で自分の勉強机に紙をひろげて描いていました。近所の女の子が姉妹二人して庭で遊んでいたのですが、窓からのぞきこんでいました。あの二人は覚えているかしら、十才と十二才くらいでした。私は大勢の動物がカステラが焼けるのを待っているところを描いていました。気に入らなくて、あとで描きなおしたのです。見られていると描きにくかったーと思いながら。
 絵本の中で下をむいてあちこちに咲いている花にはモデルがあります。ほたるぶくろです。五年生の時はじめて見ました。芝畑のふちで。愛らしい様子に胸がいっぱいになりました。
 多い時には机を四つも並べていた「子ども部屋」だの、高井戸の井の頭線を見下ろすなだらかな芝畑のふちのほたるぶくろだの、絵が出来ると一番に、母に見せていたことだの、懐かしいことがいろいろと思い出されます。
 これがはじめての絵本『ぐりとぐら』の絵を描いた頃のことです。
      (「こどものとも」1997年11月号(500号)折込付録より再録)

山脇百合子(やまわき ゆりこ)(旧姓 大村(おおむら))
東京に生まれた。童話『いやいやえん』『かえるのエルタ』『らいおんみどりの日ようび』のさし絵、絵本『ぐりとぐら』のシリーズ、『そらいろのたね』『なぞなぞえほん』『くまさんくまさん』など、お姉さんの中川李枝子さんとのコンビの仕事が多数ある。楽しいさし絵は、日本の子どもばかりでなく、外国でも高く評価されている。東京在住。

8月 12, 2005 エッセイ1963年 |

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ぐりとぐら なかがわ りえこ/文 おおむら ゆりこ/絵  福音館    ぼくがこうしてパソコンに向かっている机の前には窓があって、その窓の外にはここ... [続きを読む]

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