« 1957 (昭和32)年度にあったこと | トップページ | とんだよ、ひこうき »

2005/06/30

「こどものとも」創刊のころ  鳥越 信

 私が学校を出て岩波書店の編集部に入ったのは、1953年12月のことだった。ちょうど新しくスタートした「岩波の子どもの本」という絵本シリーズに人手が必要だったからである。以来4年間、予定されていた全34冊の刊行が終ったあとは、「岩波少年文庫」を担当していたが、1957年の12月に退社した。
 従って福音館書店が「こどものとも」を創刊した1956年4月は、私の岩波在社中のことだったから、今も鮮明に記憶している。現在は国際児童文学館に寄附してしまったため、手もとには一冊もないが、私はその創刊号から毎月購入して、きちんと目を通していた、最も熱心な読者の一人だったのである。
 その記憶の中でもやはりいちばん強烈な印象は、一冊一作主義の新しい方式を打ち出した点だった。月刊の逐次刊行物でありながら、従来の雑誌形式ではなく、単行絵本を提供するという、それまで全くなかった新鮮で大胆な実験に対して、私はうまくいくのかと心配しながらも、この冒険ともいってよい思い切ったやり方に感動を覚えたものだった。

 しかし一方、内容に関しては正直なところ私はかなり失望させられた。その理由は二つある。
 まず第一は、創刊号の「ビップとちょうちょう」が、「講談社の絵本」と同じべったり絵本だった点である。私が「岩波の子どもの本」を通して学んだ最高のカルチャー・ショックは、「外国の絵本には白い部分がある」ということで、「講談社の絵本」で育った私にとって、それは目もくらむような驚きだった。だからよけい気になったわけである。
 第二は、第2号の「セロひきのゴーシュ」、第9号の「マッチうりのしょうじょ」など、名作の再話・翻案絵本が出てきた点である。私は完訳主義を標榜していた岩波書店の影響ということでなく、自分の考えとして再話・翻案・抄訳・重訳はよくないと思っていたから、これにはがっかりさせられた。
 そうはいっても、実は「岩波のこどもの本」も、原書のレイアウトをかえたり、それにともなう原作の改変など、間違いを多々犯してきた。今ほど絵本に対する見方が成熟していなかった時代の制約ともいえるが、お互い、その後の絵本の盛況に至る必然的な道を歩んできたと考えるしかないのだろうか。
             

鳥越 信(とりごえ しん)
 1929年(昭和4年)、神戸市に生まれる。早稲田大学文学部国文学科卒業。在学中、古田足日氏、神宮輝夫氏ら早大童話会のメンバーと『「少年文学」の旗の下に!』(「少年文学宣言」)を発表。卒業後、岩波書店に勤務、石井桃子氏らと海外児童文学の紹介に努めた。また、古田、神宮、山中恒氏らと、児童文学研究誌「小さい仲間」(1954年7月創刊)を発行。一方、文庫活動や全国講演を通し、読書運動にも半世紀にわたり関わりつづけている。
 1960年〜83年、早稲田大学非常勤講師、専任講師、助教授、教授を歴任。79年、「鳥越コレクション」と呼ばれた児童文学関係資料12万余点を大阪府に寄贈、これを基に児童文学の専門研究機関として、大阪府立国際児童文学館が84年5月に開館、以降91年まで同館総括専門員として勤務。94年からは聖和大学大学院教授に就き、ゼミ生を中心に研究してきた成果を編んだ、日本初の近代絵本史『はじめて学ぶ日本の絵本史』(全3巻)(ミネルヴァ書房)で、二つの賞を受ける。今春、11年間勤めた同学を定年退職。著書・受賞多数。
(くわしいプロフィールは、鳥越信さんのホームページをご覧ください)

6月 30, 2005 エッセイ1957年 |

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「こどものとも」創刊のころ  鳥越 信:

» こどものとも50周年記念ブログの鳥越信さんのエッセイ トラックバック 絵本を知る
 こどものとも50周年記念ブログ、今回は1957年度刊行の12冊の紹介です。なかでも注目は長新太さんの絵本デビュー作、がんばれ さるの さらんくん。画像は表紙し... [続きを読む]

受信: 2005/07/06 1:10:04

コメント

コメントを書く