<作家インタビュー>『だるまちゃんとてんぐちゃん』が生まれた日 加古里子
昭和24年頃から、僕は、会社に勤めてもらっていた給料のほとんど半分を使って、外国の子ども向けの雑誌をとっていたんです。そういう雑誌には、戦争の間、作品を発表できなかった作家たちの、書きためてあったものが、うわぁーっと載っていて、みずみずしい作品がたくさんありました。
そんな中に『マトリョーシカちゃん』のお話もあったんですね。それを見てびっくりしました。子どもを出さずに子どもの本になっていて、おもちゃでありながら、出てくるキャラクターそれぞれに性格があって、ストーリーになっている。うまい。うまいというより小憎らしい(笑)。
それで僕は、自分の国のおもちゃでも、おもしろいものを作ろうとして、いろいろ考えたんです。で、ぱっと目立つのがいいなあと思って、だるまにしました。赤いですしね。
相方も、かっぱにしようか、きつねにしようか、と考えたあげく、てんぐにしました。ストーリーは、最初のうちわと最後の鼻は、すぐに浮かんだんですが、その途中ができなくて、七転八倒しました。ただ「ほしい、ほしい」っていうおねだりの本だと、編集部に怒られてしまうし(笑)。それで、だるまちゃんが自分で解決するために、お父さんには悪いけど、お父さんはとんちんかんで空振りに終わってばかり、ということになりました。
僕自身の父は、子煩悩でありすぎたんですね。子どもの僕の願いとは、ちがうことばかりするんです。僕は小学生の時、模型飛行機が大好きだったんですが、そうすると、父は値段の高い三角胴の飛行機を買ってくれるんです。安いのは、角材の一本胴なんですが、そっちの方がよく飛ぶんですね。買ってもらった三角胴は、案の定飛ばない(笑)。
そんなわけで、父には欲しい物を気取られないようにしてました。縁日の夜店でも、おもちゃをのぞきこんでいると「買ってやろうか」って言われてしまうのでね、欲しい物を横目でちらちら見て形を覚えては、まねして作っていました。失敗して手を切ったりしたことも、いい経験になりました。
家族で北陸から東京に出てきて、長屋住まいをしていたんですが、そこの長屋のあんちゃんを、今でもよく思い出すんです。6歳ほど上の人だったんですが、よく手品を見せてくれて。紙をちょんちょんとやって広げてみると、「ほら、なくなっちゃった」とかね。とてもうまい。特別な道具なんか使わなくて、そこらへんの紙とか石とかでね。
あんちゃんがまた、絵が上手で。武者修業のおさむらいのひとコマ漫画だったりするんですが、どこかまがぬけてて、刀がめったやたら長かったり、短筒を撃ってるんだけど玉がポトンと落ちてたり。いろんなところにユーモアがありました。そのあんちゃんが、僕に絵を教えてくれた最初の先生なんです。それで絵が好きになったんですが、父には怒られるんですね。絵描きになっても、とても生活できない、と。見つかると怒られるので、隠れて描いていました。長屋を出て、家で風呂に入るようになっていたので、風呂を焚きながら、焚き付けの雑誌や新聞にこちょこちょ描いては燃やす。証拠隠滅ですよ。(笑)
学生の頃から、川崎で紙芝居を見せていました。「これをおもしろがらない子どもなんていない」と張り切って見せにいっても、目の前で子どもたちが、どっかいっちゃうんです。当時の川崎では、ザリガニ釣ったり、トンボをとったり、おもしろいことがたくさんありましたから。ザリガニよりもトンボよりもワクワクするもの、子どもたちにピタッとするものを作ろうと、懸命になりました。「子どもとぐらいは遊べるだろう」と、たかをくくっていたんですが、「相手はすごいぞ」と思い直しました。ぼくもてんぐになっていたんですね(笑)。
(「こどものとも年中向き」2000年6月号折込み付録掲載「絵本誕生の秘密 作家訪問インタビュー」より一部を抜粋し再録)
加古里子(かこ さとし)
1926年(大正15年)、福井県武生市に生まれる。東京大学工学部卒業後、民間企業の研究所に勤務しながら、セツルメント活動に従事。子供会で紙芝居、幻灯などの作品を作る。1959年『だむのおじさんたち』(「こどものとも」34号)を作り、絵本作家としての道に進む。1973年に勤務先を退社。作家活動に専念してから、横浜国立大学などいくつかの大学で講師をつとめる。「だるまちゃん」のシリーズのほか、『かわ』『ゆきのひ』『とこちゃんはどこ』『はははのはなし』(以上福音館書店)、『かこさとし かがくの本(全10巻)』(童心社)など、作品数は約500点になる。神奈川県在住。
9月 9, 2005 エッセイ1966年 | Permalink | コメント (1) | トラックバック (0)