絵本作家のアトリエ・瀬川康男の仕事
瀬川康男さんは、1932年愛知県岡崎市に生まれた。
とにかく早熟なひとだった。子どものころから優等生、みなに慕われ、自然とまとめ役を任された。
学校では全校生徒を指揮し、けんかが起きれば仲裁に入る。
家では南画(文人画)を好む父が購読する美術雑誌「南画鑑賞」に幼少期より触れて東西の美術に親しみ、絵を描かせれば父をしのいだが、小学校の写生大会では教師に評価されないという、早熟さゆえの悲哀も味わった。
勉強も得意だった瀬川さんが本気で画家を志したのは、13歳で終戦を迎えたときだ。
理由は、空襲が「病気になるほど」怖かったから。
「爆撃で火事になって、その光景が焼きついちゃったのね。
空襲がこわいってことは、軍国少年にとってはものすごい屈辱的なことだったわけよ。(中略)
おれはこのままでは生きていけないなっていう。
どん底まで追い詰められて、そのときに鼻紙に絵を描きはじめた。(中略)
絵をつかまえて生きようと思ったんだね。うん、そう思う」。
そんな折、町で「門人募集」の看板を目にする。
しわだらけの新聞紙でくるんだするめが、額の中に入っている、と不思議に思って近づくと、それは絵だった。
「すごい腕だと思ってね。即日、入門した」。
入門先は日本画家、山本恵川。
言われるまま描いた絵が激賞され、一年ほど日本画の手ほどきを受けた。
中学一年生のときのことだ。
池大雅、浦上玉堂といった日本画家を尊敬する一方、このころ洋画にも目覚めていく。
「ドーミエの、むちゃくちゃに線を重ねたようなデッサン、あれにいたく感動してね(中略)。
ああいうやつをかきたいなと思って、洋画の勉強をし始めたの。
洋の東西を問わず、そういうふうに、(奥にあるものを)つかみ取って来る人が好きなの」。
こうして南画に始まり日本画、洋画と吸収を続ける瀬川さんの旺盛な好奇心と知識欲は、学制改革により移った新制高校でも衰えることがなく、美術部の仲間たちを刺激し、引っ張っていく。
*この続きは、本誌でお読みください。
(写真・伊藤修)
12月 28, 2011 今月の“立ち読み” | Permalink | コメント (0) | トラックバック (0)
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