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2010年10月 1日 (金)

ことばとからだを結ぶうた

きっかけは、テレビを見ていたときの素朴な気づきでした。
ちかごろずいぶん、字幕が多いなあ」。
画面に登場する人の発言が、逐一文字となって字幕状に流れるようになったのはいつからでしょうか。
気がつくと、耳は聞くことをやめ、目から入ったことばは、文字知識としてのみ蓄積されていくのを感じます。

すっかり離れてしまった私たちのことばとからだ11月号の特集「ことばとからだを結ぶうた」では、それぞれの役割を考え、その2つをあらためて結んでみたいと思います。

思い出してください。ことばはもともと、音、“うた”だったのですから。

[鼎談]ことばとからだをめぐって
別役実×長谷川摂子×小池昌代

ことばを体感するとはどういうことか、今子どもたちのことばとからだに何が起きているのか──。
音としてのことばに向き合いつづけている3人の方に、語り合っていただきました。

ことばになる前の衝動
小池 今回「ことばとからだ」というテーマについて考えようと、長谷川さんの絵本『めっきらもっきらどおんどん』を読み直したら、オノマトペのようなことばが飛び込んできたんです。
こういうのは、どういうところから出てくるんですか?
長谷川 やっぱり子どもがそばにいたからできたんだと思います。わが子が3歳くらいのときに、わらべうたとか、音の楽しさだけですごくからだが弾むのを楽しんでいたものですから、思い切ってイメージ抜きのことば、音とことばの中間みたいなものを作ってみたいなと。
小池 私は詩をずっとやってきたのですが、今現代詩のことばが本当にからだに響かなくて。
黙読もしんどい。ましてや声に出す喜びもない苦しいところに入り込んでしまっているように感じます。
私自身、意味から解放されたいという思いで、こういうオノマトペをもっといっぱい開発したいのですけれど、難しいですね。新しく作り出すのは。
長谷川 私は子どもと一緒に声に出して、いろんなものの言い方をしてみて、その中で子どもが喜んだものを書いているだけなんです。
子どもにぶつけてみるとわかる。
別役 ただ、最近その感覚がね、子どもたちの中にもなくなってきた気がするの。
ぼくも音としてのことばというのを非常に豊かに感じていたし、芝居はとくに音としてのことばで、子どもたちが体感するのにも非常にいいなと思うんですけれど、でも最近の子どもたちがどうも、ことばを文字として吸収しているような、音がそのまま音として伝わらない、体感できていない感じがあるんですよね。
ぼくら劇作家も、脚本を音で書こう、音で書こう、としているんですけれど、つい油断すると、文字で書いていますね。
次の朝読んでみると、「ああ、文字で書いている」と気がつくんです。
そういうときには、宮澤賢治とか中原中也とか、ああいう擬声語の天才の作品を何回か読むと、少し音としてのことばの感覚が戻ってくる。
いったん消毒しないと、どうしても文字で書いちゃうから。

*この続きは、本誌でお読みください。

10月 1, 2010 今月の“立ち読み” |

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